・杉田水脈衆議院議員が、性的少数者LGBTの人々を「生産性がない」などと書いた文章を掲載、物議をかもす
・同議員を擁護する特別企画「
新潮社の月刊誌「新潮45」(新潮社)が休刊となった事件について内田樹クンが記事にしています。
==(以下、引用)==
僕が気になるのは「新潮45」に掲載された文章の多くに「読者に対する敬意」が欠落していたことです。
「言論の自由について」という文章に書いた通り、出版物のクオリティを最終的に担保するのは、何よりも編集者と書き手が読者にメッセージを差し出すときの「敬意」だと僕は思っています。
できるだけ論理的に書く、ただしいデータに基づく、引用出典を明らかにする、カラフルな比喩をつかう、わかりやすい事例を引く、情理を尽くして説く、どれも「読者に対する敬意」の表現だと僕は思っています。
でも、現在の出版状況を見ると「読者に敬意を示さない」ことでビジネスが成立している場面が少なくありません。ことは出版だけに限りません。僕はテレビというものを観なくなって久しいのですが、それは「視聴者に対する敬意」というものをもうほとんど感じることができないからです。
「敬意」というのは僕の理解では「適切な距離感」のことです。
自分の書いたものがそこで論じられている当の人たちに読まれる可能性について想像もしていないということが「敬意を欠いた」文章の特徴です。
ネトウヨメディアの寄稿者たちの特徴は、自分の書いたものが韓国語や中国語に翻訳されて読まれる可能性についてゼロ査定している点です。
外国の読者に届くようには書かれていない。
ほんとうに彼らが真実を語っていると信じているなら、それは「身内以外」の読者たちが読んでも(韓国や中国の読者が読んでも)十分にリーダブルなものであるはずですし、せっかく書く以上、身内以外の読者が読んでも十分にリーダブルであるように書くべきだと僕は思います。
==(以上、引用終わり)==
うむ、いつもながらお見事。
どこに出しても恥ずかしくない正論であり、太閤立志伝の辻説法だと「んだ、んだ、内田先生のいう通りだよ」となることでしょう。
炎上芸としたら「そうなる(炎上すること)を予測してるんなら、何で敵前逃亡するの?バカなの、死ぬの?」でしょうし、炎上を予測してなかったとしたらやっぱり「炎上するに決まってるでしょ、バカなの、死ぬの?」であり、「昨今のLGBT擁護の風潮に異論があるにせよ、こういう記事で啓蒙や納得が生まれるの?」と言えば、杉田水脈、新潮45がアホでしたという結論になるでしょう。
そこに異論はありません。
が、しかし。
>ネトウヨメディアの寄稿者たちの特徴は、自分の書いたものが韓国語や中国語に
>翻訳されて読まれる可能性についてゼロ査定している点です。
>外国の読者に届くようには書かれていない。
おお、そうかい。
そりゃ、ご指摘、ご親切にどうも。
でも、これは言論の自由とは関係ない。
アホな記事を書けば批判されるので、反論するか、誤りを認めて謝罪するか、逃亡または無視、という当たり前の流れになるだけです。
ところが、『朝日新聞、慰安婦捏造報道謝罪記事を検索回避』はどうか。
吉田清治なる詐話師の嘘を、妻が韓国人でその母は太平洋戦争犠牲者遺族会の会長であった梁順任(日本統治時代の戦時動員被害者に「日本政府から補償金を受け取ってやると持ちかけた詐欺の容疑で 2011年12月に韓国の警察に逮捕)という朝日新聞の 植村隆記者 が記事にし、
「それって、嘘くさくね?だって証言はコロコロ変わるし、ジープだの、ヘリだの、クリスマス休暇だのが出てくるんだよ?」と批判されてもスルーし続け、20年以上経過してから「あの記事の裏付けが取れていませんでした」と舐め腐った訂正記事。
さらに、その訂正記事に検索回避タグを埋め込み、自社サイトでも検索できないようにする徹底ぶり。
国連のクマラスワミ報告にもあの捏造記事が根拠として引用されているのに、訂正の英字記事を世界は知ることが出来ない。
こちらの方がよほど言論の自由を損ね、読者を愚弄してるとゆかぴょんは思いますが、内田クンは平然とスルー。
内田クンはパヨク芸人。
お座敷、お仕事をくれるお友達の批判は出来っこない。
人間、全ての記事に目を通し、批評するなんて出来っこないけれども、この朝日捏造報道訂正記事検索回避事件は先月8月のことですよ。
新潮45休刊なんぞより、よっぽど重大な問題であることは明らかでしょう。
内田クンは鼎の軽重を問えない馬鹿なのか、卑怯者なのか、どちらなんでしょうw
よくまああつかましくも言論の自由について論じるもんだなぁ、頭が良くて美辞麗句を書き連ねるのが得意でも心が邪悪だったらむしろ有害であると思うゆかぴょんなのであった。ちゃんちゃん。