広島にいた小学生の頃、被爆地交流ということで長崎に行った折、クラスのおちゃらけBOYの岡やんの「小倉を目指して~、飛んだ飛行機~、(中略)、嗚呼~、長崎は~今日は晴れだった~」と不謹慎極まりない替え歌を思い出した。


アンタ、マクロスの替歌 で担任にボコボコにされたのに懲りまへんなぁ。

その意地、どこまで立て通せるつもりか、と当時思ったもんです。


ゆかぴょん、広島の平和教育・活動もどうかと思いますが、長崎の平和教育・活動もいかがなもんかと思ってます。

というのは、長崎は2点、広島と異なるアプローチがあるはずだからです。


1つは、2発目の原爆投下が必要だったのか?

広島はウラン型、長崎はプルトニウム型と異なるタイプだったのは人体実験のためではなかったのか。


もう1つは、キリスト教徒が同じキリスト教徒を原爆で焼き殺したという点です。


アメリカではヒロシマ・ナガサキの原爆の惨禍の展示をしようとすると、退役軍人協会をはじめとする団体の反発が入り、検閲を余儀なくされ、アメリカに都合の悪い内容はカットされます。(スミソニアン博物館50周年など)


ゆかぴょん自身は、当時は戦争中であったのだから、敵に対してアレをするな、コレをするなと注文を付けるのはナンセンスだと考えます。

ドイツや日本も原爆を開発しており、もし、先に原爆とその運搬手段を手に入れていたら、おそらく使用していたでしょうから、使用したこと自体は非難しても仕方がないでしょう。(あるいは、毒ガス兵器のように、相手に報復されることを恐れて先制使用は自粛したかもしれませんが)


しかし、戦争に明け暮れた欧州で、戦争にもルールが必要だという見解が生まれ、各種の条約・協定が結ばれるようになったように、原爆についても事後の検証というものは行わなければならないと思います。


無人島でもなく、軍事施設でもなく、人口密集地に原爆を投下する行為はアリなのか。

人口密集地に原爆を落としたらどうなるのか。


少なくとも、原爆を投下したアメリカ国民その惨禍を知り、その是非を考える義務があります。

それについて、知らねーよ、原爆投下はアリだね、イイね!という回答であれば、日本は潜在的にアメリカの人口密集地に原爆を2発投下できる権利を有する、とゆかぴょんは考えます。


てなことを、あの平和、平和と言ってる人たちはそこで思考停止してしまって、そんなこと1mgも考えたことなさそうだなーと思うので、この時期のあの式典をニュースで見ると、ゆかぴょんはイラッとしてしまうのです。