本日は少し早目に起きて、小倉駅のロッカーに荷物を放り込んで、JR下関駅へ。
そこからバスで移動し、火の山公園の麓へ。
幸い台風の進み方が遅く、曇り空で風が強いのが逆に気持ちいい。
火の山公園、歩いて登ると結構ある・・・・・・、が登頂すると絶景かな、絶景かな。
しかし、関門海峡って、マジ狭いですな。最も狭い部分で600メートルなんですと。
うーん、もし、ここが海峡でなく、地続きだったとしたら・・・・・・。
火の山公園ぐらいの高さで数kmほど九州とつながっていたら、明治以降でないととても掘削工事は出来なかったと思う。
大内氏や少弐氏、毛利氏や大友氏が、その勢力膨張時に北部九州や西中国に版図を拡げやすくなっていたんでしょう。ただ、海上交易路の要衝としての価値は減少し、山口=小京都みたいな繁栄はなかったかも?瀬戸内海の海路の重要度も史実よりは低下し、大陸と畿内を結ぶ日本海航路がもっと重要性が増していたはず。
そう考えると地形と歴史って、ホント密接に繋がってますな。
関門海峡に向かって右手、北の方向に目を転じると、あれが巌流島か、彦島か。
って、ゆかぴょん、目はあんまりよくないから識別できないw
彦島といえば、明治の頃、伊藤博文公が船で通り過ぎた時に「あの時(下関戦争の和議交渉時)、高杉さんが(彦島の)租借交渉を有耶無耶にしていなければ、今頃、彦島は香港に、下関は九龍半島になっていただろう」と語っているそうな。
本件、その述懐を裏付ける当時の記録はないらしいけど、アヘン戦争なんかがそうだけど、戦争に負ければ賠償金と領土の割譲が常識の時代なんだから、その程度の要求はあったと考えるのが普通だと思う。
特に長州は「金はねえ、金なら攘夷を命じた幕府に要求しろ」という態度だったからね。
いやー、ゆかぴょんも日頃クレーマーには悩まされてるから、こういう交渉事に強い人が羨ましいっす。
日本史の授業って何年か前から高校の必修となったらしいけど、こういう近現代をもっと詳しく教えないといかんわ。
憲法を守れだの、平和だ、人権だって主張してる連中のうち、どれだけの人間が『日本が侵略される危険性』を理解しているのか、世界と日本の歴史の何をどの程度知っているのか、とゆかぴょん、常々疑問なり。
てなことをつらつら考えつつ、下山。
関門海峡に瞑る安徳天皇の御霊に合掌しつつ、関門海峡トンネルへ。(続く)