佐藤初女さん著
いまを生きる言葉
「森のイスキア」86ページより引用








もし相手に腹が立つなら、まず腹を立てている自分を認めること。








こころが悲しんでいるなら、悲しいと言う自分をそのまま受け入れること。







悩んでいる人や心に傷を負って苦しんでいる人は、苦しみを真っ向から受け止めないで、逃げているように思います。








そういう自分を見つめることもせず、相手に原因を探しても、何の解決にもならないのです。






引用以上














わたしも過去、苦しみから逃げ回りました。







散々なまでに、これでもかというくらい逃げました。







苦しみに対処したくて、自分の気持ちを見つめる前にたくさんの手法に頼ろうとしました。








自己啓発セミナーにもいろいろ行ったし、興味の湧いた講座にも参加したし、通信講座も受けたし、本もたくさん読みました。









手法だけでは根本的な解決には至りませんでした。








手法が役に立つこともありましたから手法を否定している訳ではありません。














苦しい気持ちをなんとかしたい。









昔から物事に白黒をつけないと気が済まないタチでした。







いつでも家で誰かのせいをやっている父の価値観を丸ごと受け継いでいました。









父と同じようにいつでも誰かのせいをやっていました。









わたしを不快な気分にさせたあの人が悪い。あの出来事が悪い。







相手とわたしがいて、何かの出来事が起こったならば、わたしにも相手にも原因があるはずなのに、それを素直に認めることが出来ませんでした。









わたしは今、怒りが湧いている、悲しみにくれている、その気持ちが抜け切らないうちに、なんとかしたくて対処がはじまります。







原因探しをして、その原因を外にばかり求めて、人に不満をぶちまけているうちに感情がヒートアップして行きます。







怒りをぶちまけられたら、怒りで返す。






何度喧嘩したかわかりません、、、驚きネガティブ魂が抜ける






時を経てやっと自分自身を冷静に見つめられるようになって来ました。





といってもまだまだですが、、、驚きネガティブ魂が抜ける







感情が動きやすい自分は変わりません。といっても以前よりは揺れ幅は減っていると思います。






内観と瞑想をするようになって、感情が乱れてもそれをそのまま観るようになりました。







そのままに見切れてなくてもそれをそのまま観る。






その繰り返しです。






おかげさまで、心が乱れてから元に戻るまでの時間が以前よりもずっと早くなりました。







内観を始めてからしばらく経ったある日思いました。







気持ちが動きやすいということは感受性が豊かってことなんだから別に悪いことじゃないヨネと。










似たようなことで、人の影響を受けやすい自分が嫌になったこともあります。








これもじっくり眺めてみれば、人に対しての共感力があるということですもんね。







嫌いと好きは表裏。









感受性があっていいこともあれば、よくないこともある。








共感力があっていいことがあれば、よくないこともある。










毎日、自分の中のちょうどいいところ、いい塩梅を探りながら生きています。









自分の気持ちに少しずつ素直になってきて、そのままの気持ちを見つめるようになってきて、







自問自答しているうちに、だんだんと相手の立場が自然と見えて来ます。






あの時怒っていたあの人はそういえばかなり焦ってたなぁ。






きっと気持ちに余裕がなかったんだろうな、、、。






わたしと同じであわてんぼうなところがあるもんな、、、。







自分の気持ちが掻き乱される相手ほど、自問自答を続けるうちに自分と似ているところがあるなぁ、、、と気づかされます。
















お読みくださりありがとうございましたお願い