2024年4月8日

花まつり

お釈迦さまの誕生を
お祝いする日



日本では4月8日ですが、お釈迦さまのお誕生日には諸説あって、ネパールやチベットでは5月の満月に祝われます。



2024年5月23日

ネパール 
ブッダ・ジャヤンティ

チベット
サカダワ


いずれもお釈迦さまの誕生と成道(悟りの完成)を祝うお祭り。



日本だと成道会は12月8日。



長い時間をかけて仏教が日本に伝わって、お祭りにズレがあるのが面白いですね。



この記事を書くのに検索してたら、自分の書いたブログ記事が出てきてびっくり笑






貫井笑店み亭です。





悟りの完成とは何ぞや




至福感、強烈な開放感、あらゆるビジョンが浮かんでくる、勘が冴え渡るなどの神秘体験は瞑想を続けていると少なからず起きますが、これは残念ながら悟りではありません。



禅の修行をしている方なら、お師匠さんに怒られるやつです。



まだまだ先がある。



、、、なんてことを昨日の昼間、思っていました。



以下、安藤治『瞑想の精神医学』より一部引用



シュード・ニルヴァーナ(偽涅槃)



集中的瞑想が深まり、洞察期への変化が見られはじめるようになる段階で、すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な開放感が湧き起こってくることがある。



この状態は、瞑想の最終的ゴールであると間違えられることが多く、その意味で、シュード・ニルヴァーナと呼ばれている。



この体験は、瞑想実践のプロセスにおいては、非常に重要な意味を持つものであり、それ自体は何ら道から外れたものではなく、瞑想が進んでいく過程におけるごく自然な現象である。



しかし、この体験は、強烈な幸福感を呼び覚ますものでもあるため、1度体験すると、なんとかそれにしがみついて、手放そうとしなくしなくなる。



また、その体験をした瞑想者は、最終的な悟りの境地に達したのだと感じて、有頂天になってしまうことがあるという。



しかし、この体験にしがみつき、それを手放せない状態がいつまでも続くと、瞑想のプロセスが止まって、真のゴールに近づくことができなくなってしまう。



多くの瞑想伝統には、こうした体験を評価するための洗練されたチェック機構が存在し、偽のニルヴァーナに対しては距離を持って接するように指導される。



引用以上。








さて、ここ1か月の間、夜勤帯に働いている夫の亭



昨日は、21時半にの亭を送り出し、小腹がすいたので昼間に作った甘酒食パンをつまんで、22時22分にブログを上げてから、うとうとしていました。



ぱっと目が覚めると23時59分



頭の中に



ブッダフィールド



と浮かんできて、、、




何をするでもなく、ただそこにいたのですが、、、




23時59分から日付が変わるまでの1分、なんとも言えない心地いい時間でした




奥行きと広がりが感じられ、心も身体もリラックス




日付が変わったのを確認してから、しばらくごろごろしていたのですが、意識がとてもクリアです。



、、、ってもまだまだっ!ここにしがみつかないで、あるがままを見つめていこう!












昨年のサカダワの法話会、ダライ・ラマ14世のお話をチベットハウスジャパンのホームページより引用します。





「仏法の絆で結ばれた兄弟姉妹のみなさん、今日は私たち仏教徒が、釈迦牟尼仏陀が悟りを開かれたことを偲ぶ日です」





「“仏陀たちは有情がなした不徳を水で洗い流すことはできない、その手で有情の苦しみを取り除くこともできない、自ら得た理解を他者に与えることもできない、ただ、真如という真理を示すことで有情を救済されている” と言われています」





「釈尊は、慈悲の心に突き動かされ、有情を苦しみから導くために教えを説こうと決意されました。そして、無数の劫を数える長い間、有情のためになることのみを考えて、最終的に悟りを開かれ、苦しみは原因と条件によって生じると説かれました。それらの原因と条件は、創造神のような外的要因とは関係なく、有情のかき乱された心から生じます。私たちは執着や怒り、憎しみに支配されがちで、そのために悪い行いを為して、苦しみを生むカルマを作ってしまうのです」





「すべての事物は単に名前を付けられたものに過ぎず、それ自体の側から独立して存在してはいないのに、それ自体の側から存在しているかのように現れてしまうため、私たちはすべての事物はその自性によって存在しているという考え方にとらわれています。つまり、間違った考え方にとらわれているのです。そこで釈尊は、有情がこの間違った考え方を正すために、苦しみを知り、その原因を断ち、正しい修行道を歩むことによって、苦しみの止滅を実現しなければならない、という四つの聖なる真理(四聖諦)を説かれました」





「釈尊はまた、苦しみは様々な異なるレベルで生じ、それは苦痛に基づく苦しみ(苦苦)、変化に基づく苦しみ(壊苦えく)、遍在的な苦しみ(行苦)であると説かれました。苦しみの直接的な原因と条件は、私たちの誤った行いと煩悩にあります。あらゆる現象は固有の実体を持って存在するという間違った考え方が、私たちの煩悩の根底にあるのです。それに対して、釈尊は、いかなる現象も固有の実体として存在することはない、と説かれました。この理解は対治として機能し、理解すればするほど煩悩は軽減されていきます」




引用以上









「悟りたいので悟り方を教えてください」とおっしゃっるお客さまがいらっしゃいます。



よく話を伺うと「神秘体験を経験したいんです!」とか「悟れば苦しみから解放されるんですよね?」とかおっしゃいます。









今日は花まつり、お釈迦さまの悟りとは何だったか?ということに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?





ブッダフィールド


意識はつながっている




お読みくださりありがとうございました。



貫井笑店み亭より







販売中のお品物



























の亭です。



上記記事を書いた、み亭の夫です。



もう間も無く、籍を入れてから8年が経とうとしています。



中学から仏教を信仰し、大学で仏教を学び、遍路に行き、大学中退、仕事をし、子供ができて結婚し、家を建て離婚し、趣味や仕事を通して世界が広がり、祈りと瞑想がテーマの活動に繋がり、現在に至っています。



小さい頃からスピリチュアルが身近にあり、生きることを支えてくれていました。



祈ることをライフワークにしてくれたきっかけ、み亭と出会ったきっかけは、シャンタンさんでした。



シャンタンさんと活動を共にさせてもらっていた際には、ぼくの本名で、どこで祈るだとか瞑想会を開催するだとかスピリチュアルな投稿をSNS上でガンガンしていました。



SNSでは、家族、学生時代の友達や、職場関係の知人など、沢山のリアルな繋がりの人がいました。心配をかけ驚かせてしまったり、離れていったりした人も沢山います。



今はようやく馴染む形で発信できるようになってきました。



よく耳にするあるがままに生きるというのは、何をもってあるがままなのでしょうか。



世界の平和と調和を祈りながらも、自分のあるがままの価値観で人様に迷惑をかけ、調和をみだしていたりするかもしれません。



何をするにも段階があって、それ相応にそれぞれプライドがあります。



宇宙がはじまって地球と世界と日本が生まれ、そこに生きる社会の中で、プライドとこだわりもどれだけ成長に貢献してきたでしょうか。



フラットな目で改めて見渡すと、自分の歩いてきた道は、また、世界は、あらゆる面で『余裕を持って生きていく』ということを求めているのではないかと。



精神的な、また、宗教的な側面からにおいても、成長や悟りを複雑に捉えがちであるかと思います。



シンプルにみてみると、余裕があるさま、深く広がった瞑想状態、祈っているさま、エネルギーに満ちて開いているさまなどなど、それをブッダフィールドができている、広がっているなどと形容することができるかと、妻の話を読んで感じました。



人の痛みを、場所の痛みを解放する時に起こっていることは、あなたのブッダフィールドの広がりによる恩恵かもしれませんね。



調和は大切ですが、人の目を必要以上に気にするよりも、ブッダフィールドでくつろいでいたいと感じています。



あなたのブッダフィールドは、どんなときに広がっているでしょうか?



ありがとうございました。



の亭でした。