郡内。
大人しいながらもすくすくと育つ弟・藤丸を、兄・雪丸は大層可愛がっていた。
いや、可愛がっていたと言うと、語弊があるかもしれない。
まだ歩みがおぼつかないその手を引いて逍遥しながら、あるいは、よだれまみれで眠るその顔を覗き込んでは、毎日毎日念仏のように「早う大きくなれ」「お前が小山田を継ぐのだ」と吹き込んでいた。
「雪、藤を連れてきておくれ。もう行きますよ」
「はい!」
上機嫌を振りまきながら、飛び跳ねるように歩く兄に手を引かれ、というよりほとんど引きずられ、藤丸は目を白黒させながらトテトテと懸命に小走りを繰り出している。
その様を見、小兔姫は頬を緩ませた。それからこの愛らしい兄弟の背後にある館に目をやると、様々な思い出が匂うが如くに思い起こされ、胸に浮かんでは消えていった。
甲斐よりこの郡内に嫁いできて十年余り。この館にはたくさんの思い出が詰まっている。あの日の輿入れから小山田の妻としての生き筋が始まり、初めての出産、御太方様との軋み、兄様の来訪、富士の火吹き、信有や子供達との日々。
古びて使いにくい館ではあったが、いざ離れるとなると寂しくも感じる。
そう、今日は新しい館へ身を移す日なのである。
小山田信有は、その母・お庚の方と共に先に新しい館へ発っていた。小兔姫は親族衆の小山田智実や小林昌喜ら家臣に守られながら、子供達と共にこれから向かう。
既に支度は万端整い、あとは小兔姫と子供達が馬に乗るのみであった。
雪丸は小林昌喜の馬へ駆け寄ると、藤丸の両肩に手を置きながら元気よく言った。
「小林! 小林の馬には藤を乗せておくれ」
「おや。よろしいですよ。しかし雪丸様はいずこにお乗りになるのですか?」
「俺は馬には乗らないよ。母上の馬を引くんだ」
それを近くの馬上にて聞いていた小兔姫は、目を丸くした。
「これ、雪。小林を困らせらたいけませんよ。新しいお屋敷まで何里あると思っているの。お前が馬を引きながら歩ける道のりではありません」
雪丸は晴れ晴れしていた顔をにわかに曇らせ、ぷくっと頬を膨らませて抵抗した。
「やってみないと分かりませぬ」
この頑固さはいったい誰に似たのやら……。小兔姫は細い白い手で額を押さえた。
すると、雪丸の傅役である小林昌喜が朗らかに間に入ってきた。
「御方様、まぁ良いではありませぬか。何でもご自分のお力でおやりになりたいという、雪丸様のお心構えはまことご立派にございます」
「なれど……」
「それに、雪丸様は言い出したら聞かぬお方です。なに、お疲れになりましたら馬に乗れるよう、他の者に空馬を引いて行かせます」
小兔姫の渋々といった顔が軽く縦に振られるのを見た雪丸は、嬉々として母の乗騎の引き綱を受け取った。
すると、小林昌喜はやおら真面目な顔をして雪丸へ向き直った。
「さぁ雪様。引き綱を握ったからには、遊び気分はもう無しにございますよ。引き綱を預かるは、その馬にお乗りあそばす方のお命を預かるようなもの。馬が暴れぬよう、穴ぼこに脚を取られて転ばぬよう、細心の注意を払って歩かねばなりませぬ」
はじめはきょとんとしていた雪丸であったが、ことの重大さを理解したさまにて、フンと鼻息を鳴らし、キリリと姿勢を正してこう言った。
「心得た」