天数紀158 | 猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

捨てられ猫と福島原発被害猫と烏骨鶏の下僕です。
最近はもっぱら信虎さんの歴史小説の投稿にしか使っていませんが、過去記事には猫・烏骨鶏・うずら・競走馬についての記事もあります。

 郡内( ぐんない)

 大人しいながらもすくすくと育つ弟・藤丸(ふじまる)を、兄・(ゆき)(まる)大層(たいそう)可愛がっていた。

 いや、可愛がっていたと言うと、語弊(ごへい)があるかもしれない。

 まだ歩みがおぼつかないその手を引いて逍遥(しょうよう)しながら、あるいは、よだれまみれで眠るその顔を(のぞ)き込んでは、毎日毎日念仏(ねんぶつ)のように「早う大きくなれ」「お前が小山田を()ぐのだ」と吹き込んでいた。

 

(ゆき)(ふじ)を連れてきておくれ。もう行きますよ」

「はい!」

 上機嫌( じょうきげん)を振りまきながら、飛び跳ねるように歩く兄に手を引かれ、というよりほとんど引きずられ、藤丸(ふじまる)は目を白黒させながらトテトテと懸命(けんめい)に小走りを繰り出している。

 その(さま)を見、小兔(こと)姫は(ほお)(ゆる)ませた。それからこの愛らしい兄弟の背後にある(やかた)に目をやると、様々な思い出が(にお)うが(ごと)くに思い起こされ、胸に浮かんでは消えていった。

 甲斐よりこの郡内(ぐんない)(とつ)いできて十年余り。この(やかた)にはたくさんの思い出が詰まっている。あの日の輿入(こしい)れから小山田の妻としての()(すじ)が始まり、初めての出産、御太方(おたかた)様との(きし)み、兄様の来訪(らいほう)、富士の火吹(ひぶ)き、(のぶ)(あり)や子供達との日々。

 古びて使いにくい(やかた)ではあったが、いざ離れるとなると寂しくも感じる。

 そう、今日は新しい(やかた)へ身を移す日なのである。

 小山田(のぶ)(あり)は、その母・お(こう)の方と共に先に新しい(やかた)()っていた。小兔(こと)姫は親族衆の小山田(とも)(ざね)や小林昌喜(まさき)ら家臣に守られながら、子供達と共にこれから向かう。

 既に支度(したく)万端(ばんたん)(ととの)い、あとは小兔(こと)姫と子供達が馬に乗るのみであった。

 

 雪( ゆき)(まる)は小林昌喜(まさき)の馬へ()け寄ると、藤丸(ふじまる)両肩(りょうかた)に手を置きながら元気よく言った。

「小林! 小林の馬には(ふじ)を乗せておくれ」

「おや。よろしいですよ。しかし(ゆき)(まる)様はいずこにお乗りになるのですか?」

「俺は馬には乗らないよ。母上の馬を引くんだ」

 それを近くの馬上にて聞いていた小兔(こと)姫は、目を丸くした。

「これ、(ゆき)。小林を困らせらたいけませんよ。新しいお屋敷まで何里(なんり)あると思っているの。お前が馬を引きながら歩ける道のりではありません」

 雪( ゆき)(まる)()()れしていた顔をにわかに(くも)らせ、ぷくっと(ほお)(ふく)らませて抵抗(ていこう)した。

「やってみないと分かりませぬ」

 この頑固(がんこ)さはいったい誰に似たのやら……。小兔(こと)姫は細い白い手で(ひたい)を押さえた。

 すると、(ゆき)(まる)(もり)(やく)である小林昌喜(まさき)(ほが)らかに(あいだ)に入ってきた。

御方(おかた)様、まぁ良いではありませぬか。何でもご自分のお力でおやりになりたいという、(ゆき)(まる)様のお心構(こころがま)えはまことご立派にございます」

「なれど……」

「それに、(ゆき)(まる)様は言い出したら聞かぬお方です。なに、お疲れになりましたら馬に乗れるよう、他の者に(から)(うま)を引いて行かせます」

 小兔( こと)姫の渋々(しぶしぶ)といった顔が軽く(たて)に振られるのを見た(ゆき)(まる)は、嬉々(きき)として母の乗騎(じょうき)()(つな)を受け取った。

 すると、小林昌喜(まさき)はやおら真面目な顔をして(ゆき)(まる)へ向き直った。

「さぁ(ゆき)様。()(つな)(にぎ)ったからには、遊び気分はもう無しにございますよ。()(つな)を預かるは、その馬にお乗りあそばす方のお命を預かるようなもの。馬が暴れぬよう、穴ぼこに(あし)を取られて(ころ)ばぬよう、細心(さいしん)の注意を払って歩かねばなりませぬ」

 はじめはきょとんとしていた(ゆき)(まる)であったが、ことの重大さを理解したさまにて、フンと鼻息を鳴らし、キリリと姿勢(しせい)を正してこう言った。

心得(こころえ)た」