此度、武田信直が出陣しなかった由は二つある。
ひとつは城の普請を始めるからである。
相川の躑躅ヶ崎に新しい武田館を造ったはいいが、まだ有事の際に詰める城がない。
躑躅ヶ崎館は狭まった小高い場所にあるとはいえ、平地にあるため防御は山城とは比べ物にならないくらい脆弱だ。
此度の国人共の反乱に、他国が関わっているかどうかはわからない。しかし、今までの戦においては、大井の後ろに必ず今川がいた。
今川は強大だ。
腹立たしい話ではあるが、もしまた今川が動くことがあるとするなれば、甲斐の国の内の内まで攻め込まれることまでをも勘案しておかなければならない。
そうなると、此度の戦が終わる前には、詰城の形だけでも造っておいた方が良い。
まずは縄張を切る見当識の良い岩崎弟あたりと連れ立って手近な山へいくつか登り、場所を見定めようと思っていた。
もうひとつの由が、先頃板垣信方へ言った「兵は俺が集めたのがあるからそれを貸し付ける」である。
実は武田信直、このような季節外れの戦に備え、「上意ノ足衆」というものを創っていた。
民の多くは春から秋にかけて、田畑にかかりっきりになり、戦へ駆り出すことは難しい。農に勤しむ民を強引に駆り出せば、糧を生めない上に民の反感を買い、自領が荒れる。それは家臣らも大井や栗原も周国においても同じことである。
もちろん、武家のみであればいつでも身軽に戦を仕掛けることはできるため、此度は武家のみでの蜂起であるし、それを鎮圧する側もまた武家のみである。とどのつまり、互いに員数の限られた小規模な戦になるはずである。
このように、民を兵力の頼みとするのはいささか面倒くさい。武田信直は面倒くさいことが大嫌いである。
そこで武田信直は考えた。昨年田畑がだめになり、食いはぐれた民や、武田へ直接士官を望む土豪、周国の浪人を集め、者共を飼うことにした。
平素、流れ者であらば小さな畑を貸し与え、民であらば己が田畑を手入れさせつつ、寄親となった将より武術や武具の扱いなどの鍛練を積ませる。戦になれば、手柄を求めて能く働いてくれるに違いない。
もう少し時代が後に下れば、こういった浪人部隊は珍しくもなくなるが、この時分は武田信直や伊勢宗瑞くらいしか行っていなかった、画期的な制度であった。
この上意ノ足衆がいかほどのものか、寄親である己を離れて別の将の指揮下においていかほどに戦えるのか、試してみたいと思うてのことであった。