天数紀157 | 猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

捨てられ猫と福島原発被害猫と烏骨鶏の下僕です。
最近はもっぱら信虎さんの歴史小説の投稿にしか使っていませんが、過去記事には猫・烏骨鶏・うずら・競走馬についての記事もあります。

 此度( こたび)、武田(のぶ)(ただ)が出陣しなかった(よし)は二つある。

 ひとつは城の普請(ふしん)を始めるからである。

 相川( あいかわ)躑躅ヶ崎(つつじがさき)に新しい武田(やかた)(つく)ったはいいが、まだ有事(ゆうじ)(さい)()める城がない。 

 躑躅ヶ崎館( つつじがさきやかた)(せば)まった小高(こだ)い場所にあるとはいえ、平地にあるため防御(ぼうぎょ)山城(やまじろ)とは比べ物にならないくらい脆弱(ぜいじゃく)だ。

 此度( こたび)国人(こくじん)共の反乱に、他国が関わっているかどうかはわからない。しかし、今までの(いくさ)においては、大井の後ろに必ず今川がいた。

 今川は強大だ。

 腹立たしい話ではあるが、もしまた今川が動くことがあるとするなれば、甲斐の国の(うち)(うち)まで攻め込まれることまでをも勘案(かんあん)しておかなければならない。

 そうなると、此度(こたび)(いくさ)が終わる前には、(つめ)(じろ)の形だけでも(つく)っておいた方が良い。

 まずは縄張(なわばり)を切る見当(けんとう)(しき)の良い岩崎弟あたりと連れ立って手近な山へいくつか登り、場所を見定(みさだ)めようと思っていた。

 もうひとつの(よし)が、(さき)(ごろ)板垣信方(のぶかた)へ言った「兵は俺が集めたのがあるからそれを貸し付ける」である。

 実は武田(のぶ)(ただ)、このような季節外れの(いくさ)(そな)え、「上意(じょうい)()(あし)(しゅ)」というものを(つく)っていた。

 民の多くは春から秋にかけて、田畑にかかりっきりになり、(いくさ)()り出すことは難しい。(のう)(いそ)しむ民を強引に()り出せば、(かて)を生めない上に民の反感(はんかん)を買い、自領(じりょう)が荒れる。それは家臣らも大井や栗原も(しゅう)(こく)においても同じことである。

 もちろん、武家のみであればいつでも身軽に(いくさ)仕掛(しか)けることはできるため、此度(こたび)は武家のみでの蜂起(ほうき)であるし、それを鎮圧(ちんあつ)する側もまた武家のみである。とどのつまり、互いに員数(いんずう)の限られた小規模な(いくさ)になるはずである。

 このように、民を兵力の(たの)みとするのはいささか面倒(めんどう)くさい。武田(のぶ)(ただ)面倒(めんどう)くさいことが大嫌いである。

 そこで武田(のぶ)(ただ)は考えた。昨年田畑がだめ(・・)になり、食いはぐれた民や、武田へ直接士官(しかん)を望む土豪(どごう)(しゅう)(こく)浪人(ろうにん)を集め、者共(ものども)()うことにした。

 平素( へいそ)、流れ者であらば小さな畑を貸し与え、民であらば(おの)が田畑を手入れさせつつ、(より)(おや)となった(しょう)より武術(ぶじゅつ)武具(ぶぐ)の扱いなどの鍛練(たんれん)を積ませる。(いくさ)になれば、手柄(てがら)を求めて()く働いてくれるに違いない。

 もう少し時代が(のち)(くだ)れば、こういった浪人(ろうにん)部隊(ぶたい)は珍しくもなくなるが、この時分(じぶん)は武田(のぶ)(ただ)()勢宗(せそう)(ずい)くらいしか(おこな)っていなかった、画期的(かっきてき)な制度であった。

 この上意(じょうい)()(あし)(しゅ)がいかほどのものか、(より)(おや)である(おのれ)を離れて別の(しょう)指揮下(しきか)においていかほどに戦えるのか、試してみたいと思うてのことであった。