前回に引き続いて、第2弾
司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』文藝春秋社刊。
司馬氏は、『歎異抄』を絶賛している。
したがって、浄土真宗についても、大変詳しく書かれている。
以下の5つが私の中で特に印象に残ったものである。
※ ⇒は私の感想や意見を述べます。
1 弟子の唯円(歎異抄の筆者)と親鸞との会話。
唯円:「南無阿弥陀仏を唱えると、極楽に行けますか?」
親鸞:「極楽に行けるか分からない。ただ、いい人と思っている法然からそう聞いた。法然という人がいい人だから、私はそれを信じている」
唯円:「浄土に往くことに、心が喜ばないのです。どうしてでしょう?」
信頼:「じつは私もそうなんだ。」
⇒親鸞という人は、至って普通の人だということがよく伝わるエピソード。このように、偉ぶらず、知ったかぶらないところが魅力的なのかもしれない。
2 浄土真宗の寺は、一目瞭然。屋根の上部構造を非常に大きくしている。
理由)戦争の際、焼きはらうための矢が飛ばされても、屋根瓦に落ちて燃えないため。
⇒妻の実家は浄土真宗大谷派のお寺が菩提寺。確かに屋根が大きい印象がある。
3 「上人(しょうにん)」は、正規の僧侶ではない資格を持たない僧への敬称。
有資格者の空海、最澄は上人(しょうにん)とは言わない。
また、聖人とは、乞食坊主のこと。
⇒お坊さんのことを、「お上人様」と言っていた自分がいる。何と呼べばよいのだろうかましてや、聖人とはものすごく格の高いお坊さんのことだと思っていた
。
4 島津藩(江戸時代)は、キリシタン以上に浄土真宗を恐れる。
縦社会を重んずる島津藩は、横社会(冨士講、伊勢講等)を嫌う。大名の言う事を聞かなくなる心配があるため。
⇒確かに、横のつながりを持たれることは、大名にとって都合が悪い。今の時代だからこそ、より横のつながりが大切といえるだろう。
5 善人とは、飛び切り優秀な人間。悪人とは、普通の人間。
変わった人間(善人)でも往生できる。ましてや、普通の人間(悪人)ができないはずがない。
⇒天才的な人が善人。それは極めてレアな存在。我々のような凡人(普通の人)を悪人と言う。この解釈は分かりやすい。
司馬遼太郎から、色々と知的好奇心が揺さぶられる。
これからも、司馬氏の本に注目していきたい。