うだるような暑さがこの身を刺す。そう書けば聞こえはいいが、実態は「刺す」というよりも全身を厚い毛布でくるまれたような、湿気を含んだ不快な気候である。
東京の友人の暑さに関する愚痴を聞いて笑いものにしていたのがつい先月。適温も梅雨もあっという間に過ぎ去り、いつの間にかこちらが愚痴を吐く立場に回ってしまった。人を呪わば穴二つ。その言葉が今の僕には重い。僕が足踏みを重ねているうちに過ぎたのは幾月だろうか。いつの間にか、夏であった。
そんな前書きを用意し、帰りの時間の都合でパソコンを閉じてからおおよそ五日。いつもと違う帰り道を選び、光電池の時計が止まり、友達と真昼のコンビニでアイスを片手に笑い合った。書き残していなければ記憶の彼方に飛んでいきそうな、きっと僕の人生全体からしてみれば些細な日々を越え、さてあっという間にブログの期限が迫ってきた。何を本題に書こうか、今でもパソコンの前で思案する僕がいる。
「負けたくない」と「勝ちたい」の境目はどこにあるのだろうか。最近時たま考えることがある。後ろ向きな言葉と前向きな言葉。同じことを指しているようで、その包含する範囲は若干の違いがある。「負けたくない」は「勝ちたい」を内包し、前者は引き分け・痛み分けを含むが後者は含まない。杓子定規な解釈ではこの通りとなると思われる。実際に辞書を引いたとしても大きく意味を外してはいないだろう。
「信じられない」「構わない」「許せない」…。ひとはそうした「打消しの言葉」を短時間で認識するのに難儀する、なんて説をどこかのテレビで見たことがある。言葉に否定を入れることで、人の脳は直感的に耳から受け入れていた言葉の意味を一度咀嚼し、そのニュアンスの打消し、即ち逆を考えるプロセスが生じる。故に冒頭の結論に至るのだと、うろ覚えではあるがそういった主張であった気がする。だからこそ、人に指示を行う際はそういった打消しの言葉よりも、真っ直ぐに含意が伝わる直接的な言葉を多用すべきである、とも。
「信じられない」は「いい意味で驚かされる」や「常軌を逸している」に、「構わない」は「それでいい」や「認める」に、「許せない」は「許容の範疇を越えている」や「厳しい」などに…。実際はその前の文章の流れがあるためこうした難しく、ざっくりとした言葉を使用してまでの言い換えを要するケースは珍しいだろうが、無理やり単語を言い換えるならこのようになるだろうか。
なるほど、字面の難解さはともかくとして耳当たりがより柔らかくなり、すんなりと頭に入ってくる印象がある。心理的な障壁を作ることも少なくなり、対人関係もより円滑になるだろう。僭越ながら広報役職を預かる者として、多かれ少なかれ参考になる主張である。
翻って、本文冒頭に挙げた「負けたくない」。先に挙げた言葉たちと異なり、「勝ちたい」という言葉への置換は思いの外容易である。文字数も多くなるどころか減っており、完成するであろう文もシンプルでスリム、先の説にも合致するといいことづくめである。
では両者の差異は単なる範囲の差であろうか。「負けたくない」は「勝ちたい」に単純に置き換えることが出来る言葉だろうか。
僕はそうは思わない。「負けたくない」という言葉からは、試練や逆風、壁の存在にぶち当たっても全身全霊で立ち向かい泥臭く結果を拾う、という感情を受け取ることができる。たとえそれが自分にとって最善の結果ではなかったとしても、その身を粉にして踏ん張ることで最悪の結果を回避し、並び立つ仲間や未来の自分に「勝つこと」を託す。そんな言外の叫びを、きっとこの言葉は内包している。そういう、所謂「魂の叫び」が「勝ちたい」という言葉に簡単に置き換えられようか。
「逃げたくない」「諦めたくない」「考えたくない」。そういう「否定的な」言葉たち。 彼らのことは、実のところ僕は嫌いではない。逆張りのように思われるかもしれないし、実際そういった気があることは否めない。「踏ん張る」「粘る」「考慮外である」などのように、ある程度簡単な言い回しで言い換えが出来ることを把握していないわけでもない。余裕を感じられない、子供じみた表現になりがちであるということだって重々分かっている。
それでも。それでも、僕は心の底から叫びたい。この世界、王道だけがすべてではないと。「勝つこと」だけでなく「負けないこと」にも意味があると。逃げず、諦めず、その先を考えないことにだって、数え切れないほどの人生が、夢が、未来があるのだと。
…少々熱くなってしまった。何れにせよ、上記の理由から「打消しの言葉」の全面的な言い換えを、僕は明確に否定したい。少なくとも、僕は「勝ちたい」より「負けたくない」を心に刻んで生きがちである。そして、それに対する理想論や批判を打消すほどの結果を、そういったメンタリティから導出したいという信念…というより、「執念」だって持ち合わせてもいる。
書くだけ書いてパソコンの中に眠らせていた、というか放置していたこのブログの前書き。眠気と勢いのままに書いたであろうこの文章をこのまま使うか、実のところ悩んだりもした。
折角書いたのだから、という感情を覆い隠すように胸に去来する色々な、灰色の思いたち。あまりにも格好つけた、所謂「厨二」チックな文章ではないか。部活の仲間や知り合いに笑われるのではないか。あとから恥ずかしくなるのではないか。
意味はある。細部の表現、一字一句に至るまで、「敢えて」この言葉を選び続けた意味は間違いなくある。それを数千字、何回にも渡って続けることが僕の長所で、個性であることも自分で分かっている。だからこそ悩んだ。
一時は使わないことを本気で考えた。折角書いた、といっても高々数百字。消そうが消すまいが全体の分量にさほど影響はない。本文に直接、大幅に関係するわけでもない。
分かっているのだ。有意義な文章に、着飾った冒頭など不要なのだと。普段広報活動で追い求めている「効率的な運用」に相反する事象であると。
さぁ、言い訳は終えた。僕の大好きな正当化だってきっと済んだ。誰かの言葉も今日だけはいらない。
だから、堂々とこの文章をアップしよう。幾つ月日を数えても、いつか日常が想い出になっても、「負けたくない」という執念を、この胸から、この魂から、いつまでも消さずにいるために。
了
文責:COX・広報長三年 谷村