人生は、時に理不尽で無情な試練を与えるものだと、最近考えることがある。
 つい一昨日まで、今年の春休みや昨年の今頃からは想像もつかないほど、僕は諸々の作業に追われていた。学校の課題に始まり、複数案件の動画編集、バイトの事務作業、広報業務…これにCOXとして休むことのできない朝練と、デッドウエイト免除に足りるよう55Kgまで増量しなければならない故の午後練を混ぜ込めば、ひとつの臨時作業で簡単にパンクするすし詰めスケジュールの完成である。

 「時間を潰す」ことに腐心していたあの頃の、有り余るほどに手持無沙汰な時間をどこかに貯めておければよかったのに。しかしながらそんな僕の願いと、取り逃し、もう選ぶことのできなくなった数多の道を置き去りに、どうも世界は一瞬たりとも止まることなく回っているらしい。観たいアニメや特撮作品、やりたいゲームが堆く積み上げられていく傍らで、僕は「やりたい」と「やりたくない」の狭間におかれた「やらなければならない」作業に一人、孤独に立ち向かってゆく。

 ━━え?このブログは「やらなければならない」作業なのかって?…ははっw

実益も兼ねた息抜きは必要だし問題ないよね、そんな言葉で逃げさせていただこう。

 

 そんなわけで記事とするのが遅くなってしまったが、仮にも新歓副隊長を拝命していた立場の人間として今年度の新歓について触れないわけにはいくまい。

 正直作業は非常に重かった。4月期は他の些事をある程度切り捨てて作業をしたような記憶がある。新歓終盤に体調を崩し一週間寝込んだのは、正しくそういった疲労・心労が積み重なった結果であるとすらいえるだろう。
 ただこうした内容に関しては、僕も不満を述べる気はない。そもそも望んで就いた役職であるし、広報として背負った仕事を繰り入れたとしても企画書の統括や本番のシフト管理まで一手に引き受けていた新歓隊長に比べれば大した作業量ではない。なにより肩書を背負っている以上責任が発生するのは当たり前なのである。新歓の主目的たる新入部員の勧誘に失敗すれば僕を含む幹部陣の失敗で成功すれば部活の成果、責任の重さと自身へのメリットを天秤にかけた時のアンバランスを許容できる心身のキャパシティがあってこその役職であるし、それでも尚やってみたいと思わせる魔力が新歓にはあった。そういう風に、とてつもない人見知りというこの上ないハンデを背負いながら自分なりに新歓に真剣に向き合っていたのだがしかし、否、だからこそ、新歓の方針をめぐる部内の意見の移り変わりには本気で頭を抱えることになったものである。

 

 「どこまで『本気度』を強調するか」今年度の新歓の課題は一言で表すならこの点に尽きる。そしてこの点こそが部活・新歓の首脳陣を、なにより部全体を悩ませた根深い問題であった。トップやそれに準ずる存在に強烈なカリスマ性か強大な権限がなければその組織は往々にして意見の隔たりから内部分裂を起こし空中分解しかけるというのは読者諸氏もイメージがつくだろうが、よく言えばアットホーム、悪く言えば絶対的な方針決定者の不在と、事前に打ち出していた、従前のものからは大きく方針転換されたある種「極端な」方針への(特に新入生からの)疑義が積み重なり、部活動や学年全体の在り方まで巻き込んだ大きな議論へと発展した。開始当初、試乗会をはじめとするイベントに思うように人が集まらなかったことも、一つの要因ではあるだろう。新歓の方針を決める時に、もっと色んな要素や展開を想定していれば、また違ったシナリオもあったかもしれない。

 でもこれは、きっと避けては通れない道だった。いろんな関わり方、考え方をもつ人たちがこの部活にはいる。自分とは違う色んな長所や、短所や、パーソナリティを持っている部員が集まるボート部は実に多士済々で、「新潟大学版『文化のサラダボウル』」とも形容できるその多様っぷりはきっとどこの部活にも勝る僕らだけの長所だ。自分の考えを伝え、相手を理解し、共存の道を模索する。限りない回り道かもしれないけれど、ボート部はそうやって強く、しなやかな組織になってきたということは疑いようのない事実だ。
 だからこそ。僕は思うのだ。あの瞬間、互いの思いをしっかりとぶつけ合うことは運命だったのだと。たとえどういう経緯で、各々がどんな思惑を持っていようと、あの瞬間に議論し、方針を改めて確認したことはある種の必然で、それこそがこの部活で考えうる「正解」なのだと。

 

 

「世界なんてさ、どうせもともと狂ってるんだから」

 映画「天気の子」のエンドロールが迫るなか、「大人」として主人公を激励する須賀が最後に告げた言葉であると同時に、映画作品としては人生5本の指に入るこの映画の中でも一番といっていいほど心を揺さぶられた、僕にとっての至言である。

 2019年公開の映画が僕がこの映画を始めて観たのは、地上波でこの映画が初放送された2021年1月3日(から厳密には約1週間後)、高校受験に追われ希望と不安の渦中にいた日々の中であった。親のハードディスクに録画されていたこの映画を、受験期の不安や鬱憤から目を背けるためこっそり視聴したあの日から4年。僕のライフステージは2度の変化を見せ、生涯の友人と呼べる存在も幸いにして見つけることができ、お酒やクレジットカードの解禁と同時に印鑑の重みも格段に増した。中学生の自分からは考えられない、途方もないほど数多の試練を乗り越えると同時に、乗り越えられずに背を向けた壁も信じられないほどに増えた。

 きっとそれは「大人になった」ということで、「人生に深みが増した」ということでもあるだろう。年配の方や海千山千の人生を潜り抜けてきた方に言えば鼻で笑われるような、傍から見れば低く小さく、簡単に回り道できるものかもしれない。実際今回僕を追い立てた作業のいくつかについては「請け負わない」という選択肢もあった。回り道も「壁に向き合わないこと」も、簡単に選べた筈だ。
 それでも僕はそうした試練を抱え込んだ。そして、自分なりに苦しみ悩みながら、不格好ではあるがひとまず目に見える成果は出してみせた。入部者13人、一昨年度から倍増した2024年度の「イレギュラー」は単なる博打当たりではないと、けして僕だけの力ではないが証明してみせた。
 暇で仕方がない時も、世界のすべてが自分を追い立てているように思える時でも、世界は平等に進んでゆく。どんな富豪も有名人も、そして僕を含む世界のだれもが、1日24時間、1440分を平等に受け取り、そして消費していく。どれだけ作業が切羽詰まっても、どれだけ名残惜しいと思ってもひたすらに進んでいく世界の、なんと残酷で冷淡で、そして狂おしいほど美しいことか。そういう世界で、組織の名前に隠れ決して名前は見えないけれど、大切な仕事をひっそりと成し遂げた僕は、壁を乗り越えて今までよりも少しだけ大きく強くなったのだと、少し傲慢かもしれないけどそう思う。
                                     了

文責:COX・広報・漕手二年 谷村