『織田信長435年目の真実』
(明智憲三郎氏著)
に関する私見
(アスペの視点から家康誅殺説否定)
(織田信長14)
(織田信長発達障害事例研究14)
※今回は個人的見解、私見を記載
【投稿 令和6年4月1日】
【追記 令和6年7月21日等】
※今回のブログは、他の方が書かれた著書の内容に基づいて記載する手法という面があり、多くの研究者から非難される手法かもしれません。
※今回の内容は、全ての発達障害者に当てはまるわけではありません。
※本能寺の変については様々な説がありますが、今回は、アスペルガーの視点から、私がどうしても否定しておきたい説について取り上げています。
※今回は、久しぶりに月曜日投稿の発達障害部門のブログです。
1 はじめに(私見)
織田信長についての著書は非常に多くありますが、明智憲三郎氏(光秀の子孫)が執筆された『織田信長435年目の真実』(幻冬舎文庫)もその一つです。この著書では、孫氏の兵法等を応用した歴史捜査という方法で織田信長について分析しておられます。私は、この著書について、第1章と第2章、特に桶狭間の戦いの箇所については賛同できますが、それ以降は「?」と疑問に思う箇所も多く、特に「本能寺の変 家康誅殺説」(以下単に「家康誅殺説」と言う場合あり)について私は強く否定しています(私見)。これまでの私のブログで証明したり分析してきた通り、またネット情報でも言われているように、織田信長は明らかにアスペルガー症候群(発達障害の一種、アスペルガー症候群≒ASD、詳細はネット情報、発達障害に関する著書、ネット情報等参照)ですが、その一般的特性等から家康誅殺説を否定できると私は考えます(私見)。今回のブログでは、個人的見解・私見ではありますが、このことについて述べてみようと思います。
【参考】
※本能寺の変⇒天正10年6月2日(1582年6月2日)早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件(ウイキペディアより)。これにより、織田信長は本能寺で切腹。(その他詳細については今回は記載省略)
※本能寺の変の原因⇒様々な説があります。詳細について下記参照。
※本能寺の変 家康誅殺説⇒天正10年6月に本能寺で信長が本当に討とうとしていたのは徳川家康で、孫氏の兵法を応用させた方法、つまり少人数の警備しかいない本能寺の信長の元へ堺見物中の家康一行を少人数で呼び寄せて家康一行を全員討ち取り、その後家康領に侵攻しようとした、という説。明智憲三郎が著書にて唱えておられる。
2 参考 明智憲三郎著『織田信長435年目の真実』(幻冬舎文庫)について
<著書の内容>
第1章 大うつけ作戦
第2章 解明された桶狭間必勝の作戦
第3章 解明された苛烈・残虐の真相について
第4章 解明された天下統一への道
第5章 本能寺の変の神話を暴く
第6章 天下統一の先に求めたもの
第7章 なぜ本能寺で討たれたか
※家康誅殺説は、第7章にて論じておられます。簡単に言えば、孫氏の兵法等を応用し歴史捜査の方法で分析した結果、家康誅殺説という結論が出た、とのことです。
<Pick>
3 家康誅殺説を私が否定する根拠等(私見)
(1)アスペルガー症候群の特性
アスペルガー症候群の特性については、#㋐2のブログで記載していますが、その中に、「鵜呑みにしやすい」「だまされやすい」という特性があります。
<参考>(私見)#㋐9と#㋐32のブログでは、アスペルガーの鵜呑みにしやすい、だまされやすい特性のため、信長は妹婿の浅井長政を100%完璧に信用してしまい、しかも裏切りの報告が来ても「長政は絶対に裏切らない」と頑なに思ってしまった旨記載しています。松永久秀や荒木村重の時も同じことが言えるようです(後日改めてブログを作成予定)
(2)織田信長は謀略・調略等が苦手(一部再掲、私見)
ルイスフロイスは、信長自身は謀略や調略等が苦手である旨明記しています(『完訳フロイス日本史』参照)⇒信長の場合、ウソをつくことができない(orウソをつくのが苦手)というタイプのアスペルガーだと言えるので、信長自身が喜ぶフリをするのは不可能と考えられます。よって、太田牛一著『信長公記』に「信長は喜んだ」と書いてあれば、本当に喜んだと断言できます(私見)。
【参考】信長自身は調略等が苦手である旨ルイスフロイスが述べていることから、孫氏の兵法を全て覚えていたとしても信長自身はそれを応用させることが非常に苦手であったと考えられる旨#㋐40や#㋐42等のブログで記載しています。
(3)太田牛一著『信長公記』卷15より
天正10年、織田・徳川連合軍が武田家を滅亡させた後、織田信長は徳川領経由で安土に戻りますが、その際、信長は家康から豪勢な食事などの手厚い接待等を受け、信長は非常に喜んだ(下記の通り、「殊勝なことと感心なされた」「信長公のお喜びは言うまでもない」等)、とのことです(天正10年4月)。それは次の引用史料の通りです。
<引用1>(天正10年4月10日)
※引用元:『信長公記』卷15(太田牛一著)(角川文庫)
※赤線の「信長公奇特と御感なされ候」は「殊勝なことと感心なされた」という意味、とのこと
※この箇所では、家康の様々な対応について信長が殊勝なことと感心したこと等が記載
<引用2>(天正10年4月15~16日)
※引用元:『信長公記』卷15(太田牛一著)(角川文庫)
※赤線の「信長公の御感悦申すに及ばす」は「信長公のお喜びは言うまでもない」、つまり信長が家康の接待にたいへん喜んだ、とのこと
※この箇所では、家康の手厚い接待(豪勢な食事等)について信長がたいへん喜んだ旨等が記載
(4)結論(私見)
① 上記の通り、信長はアスペルガーであるため、鵜呑にしやすい、騙されやすい特性があり、また謀略や調略等は苦手である。
② 信長は家康からの手厚い接待で非常に喜んだ⇒アスペルガーの特性や「謀略や調略は苦手」という信長の特性から、信長は本当に喜んだと言える。
③ 上記①・②により、信長は家康を100%信用⇒よって、家康誅殺説は否定できる
4 結論⇒改めて家康誅殺説否定(私見)
上記により、私は、アスペルガーの視点から、本能寺の変家康誅殺説を強く否定します。
5 参考 本能寺の変の原因(私見)
私は、本能寺の変のような大事件は様々な原因が複雑に絡み合って起こると考えており、本能寺の変の原因はひとつではなく、様々な原因が複雑に絡み合って起こったと考えています。即ち、私は複合説をとっています。具体的には、「アスペ特有のトラブル+一般人など様々な人の怨みを買った+光秀の怨みを買った+四国の大名や朝廷を怒らせた+観光旅行説」等が原因と考えていますが、詳細は後日改めてブログを作成します。
参考 本能寺の変の原因
①一般的に言われている説
・四国説
・朝廷黒幕説(安倍龍太郎氏等)
・光秀怨恨説(ほあん信長記)?
・光秀天下奪取説?(フロイス日本史での推定?)(R6.7.21追記)
・家康黒幕説
・光秀ノイローゼ説
・家康誅殺説(明智憲三郎氏)
・自作自演説(小名木善行氏)
②私が考えている説
・アスペトラブル説
・一般人等怨恨説(例:竹生島事件で処刑された女中や僧侶等の遺族?)
・宗教勢力怨恨説(R6.4.30追記)
・信長油断説(R6.4.30追記)
・観光旅行説
・複合説
6 改めて信長研究に関する私見
織田信長に関しては、多くの研究者等が様々な視点で研究をされ、様々な方が様々な著書を書いておられます。しかし、私が知る限りでは、発達障害、特にアスペルガーの特性を理解した上で研究等している人は皆無ではないかと思いますし、アスペルガーの特性を踏まえて信長の著書を書いておられる方も皆無だと思います(もし違っていれば連絡ください)。一方、アスペルガーについて理解せずに信長研究を進めた結果、考えすぎたり(自作自演説?)、結論を間違えたり(家康誅殺説)する事例もあると思います。やはり、私は、信長の研究を行う場合、アスペルガーの特性や発達障害についても理解した上で進めるべきだと思います。(あくまで私見、個人的見解)
<その他>
※桶狭間の戦い等については後日改めてブログを作成しようと思っています。
※孫氏の兵法に関しても、後日改めて作成しようと思っています。
※今回のブログの内容をひっくり返すような史料についての連絡がきた場合等については、その都度修正します。
<参考文献>
『織田信長435年目の真実』(明智憲三郎著)(幻冬舎文庫)
『織田信長 不器用すぎた天下人』(金子拓著)(河出書房出版)
『完訳フロイス日本史2』『完訳フロイス日本史3』(ルイスフロイス著、松田毅一・川崎桃太訳)(中公文庫)
『信長公記』(太田牛一著)(角川文庫)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、榊山潤訳)(ちくま学芸文庫)
ウイキペディア
『旦那さんはアスペルガー』シリーズ(野波ツナ著)等
<Pick>
※引用箇所について転載等禁止
※誤字脱字等があればその都度訂正します。
※本日も最後までご覧いただきありがとうございました。