あれ、教育って受け身なものだっけ? | BLOG

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教育って、なんだろう?

教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、こころとからだの両面に、意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。Wikipediaより)

これ、おもしろいですね。。。ぼくはこの定義に結構衝撃うけました。特に、「ある人間を望ましい状態にさせるために」というところ。なんだか、既につくられたフォーマットにみんながあてはめられていく、画一的なイメージ。

この定義からすると、教えて、育てるのは教育者のほうであり、「望ましい状態」というのは教育者の側からみたもののことでしかない。

ふと思ったのだが、世間一般にいう「教育」が上記のようなものだとすれば、教育を受ける側からすれば、「教育」はとても受け身なものということになる。「教育」は受け身なものなのだろうか?

ぼくは、そうだとは思わない。なぜかというと、どのような状態が「望ましい状態」というのは、人によって明らかに違うからだ。ほんとうに望ましい状態というのは、自分自身でしか見いだせないのではないだろうか。

ただ、自分で物事を考えられるようになるまでは、教育を一方的に受け入れざるをえない。

なるほど、教育にもいくつかの段階がありそうだ。ということで、3つの段階に分けてみた。(教育学などを勉強していたわけではないので、あくまでも自分の視点で)

ステップ1 受け身としての教育




社会の常識を最低限満たした「望ましい状態」をつくる段階。

ここでの「望ましい状態」というのは、世間や親に決められたもので、自分では決められないものだ。

ここでの「教育」の主語は、教育者(親や先生)。つまり、文字通り「子どもに教え、育てる」ことである。


ステップ2 主体的な教育



自分にとっての「望ましい状態」をつくる段階。

何が望ましいのか、どのようにすれば望ましい状態にすることができうるのか、自分で主体的に選びとることができる。

ステップ1とは異なり、ここでの「教育」の主語は、自分自身に切り替わる。つまり、自分から自発的に「教わり、育つ」ということだ。


ステップ3 他者に与える教育



ステップ1と2で培った自分自身の感性や観点で、社会の望ましい状態をつくる段階。

また、自分の子どもに、伝えていく段階でもあるのかもしれない。



ここまで書いて気付いたことがある。親から子への教育で大切なことは、ステップ1で主体的に学んでいく素養をつけさせること、ステップ2・3で自らの考えや感性を子どもに押し付けないこと、なのではないか。

この3段階をもう一度眺めてみると、教育は「与えられ、自ら育み、社会や人に還元する」という一連の流れのことをいうのかもしれない、と感じる。

「教育」は受け身なものなのだろうか?と初めに書いた。ぼくのなかでの答えは、「ある時期までは受け身なもので、ある時期から主体的なものに切り替わる」。親であれ、先生であれ、教育者としては、それぞれの段階で適した接し方を追求するのは、大切なことではないだろうか。