本日、新刊『裏日本に燦然と輝く古代文化交流』<ヌース教養双書>(石塚正英 著)を発行しました。
(内容紹介)
武蔵国では文明を支える原初性を探究する社会哲学者が、頸城国でフィールドワーカーとなり、裏日本文化と古代日韓の民間文化交流に関する調査研究を基に生まれた著作。高句麗・百済・新羅の三国時代、特に高句麗系の移住民に著者の関心は集中し、そんな人々の足跡をたどってみることが本書の主なテーマとなっている。
「本書は、私の生地にして民俗フィールドワークのホームである新潟県上越地方での古代文化交流に関する調査を基に執筆されている。新潟県は、京都に近い地域から順に「上越」「中越」「下越」それに「佐渡」と区分してきた。そのうちの「上越」(上越後と記して「かみえちご」と読む)を、昔は「くびき」と称し、「頸城」あるいは「久疋」「久比岐」という漢字をあてがっていた。
その頸城野には、おおまかに概観して、関川水系と姫川水系に即した街道が古代文化伝達の動脈となっていた。その点を充分に考慮した論文として、平野団三「古代中世上越後(頸城)の交通路」(『頸城文化』第24号、1964年)がある。
「信越の交通路として姫川筋と関川沿道が用いられたことは、既に知られている。越後国府(直江津)より信濃国府への支道が、奈良朝には確実に成立していたであろう。これが後世の信濃街道、中山街道、江戸期の北国街道である」。
くびき古代の交通路を考える場合、今ひとつ、海の道を忘れてはならないだろう。『日本古代の神話と歴史』(吉川弘文館、1992年)の著者米沢康は次のように述べている。「私は、八千矛神と高志国の沼河比売との神婚伝承にも、海の問題を考えないわけにいかない。とくに、北陸道の神済の存在に着目すると、〔高志国の沼河比売〕といわれるその背景には、この神済における渡海祭儀の実修が、大きな役割を担っていたのではないかと推考される」。ここに出てくる「神済」とは、北陸道の越中と越後の境界の河ないし沿岸海域を指している。沼河比売神婚神話は出雲から能登を経て佐渡に伝わり、佐渡からさらにその東方海域に「浮かぶ」とみなされた「高志」ないし「古志」に汀線文化(汀伝いにすすむ航路)として伝えられたと仮定すれば、沼河比売をことさら越後国頸城郡の奴奈川神社や沼川郷に結びつけなくともよいことになるだろう。
くびき野には、裏日本の北陸(若狭、越前、加賀、能登、越中、越後)を結ぶ北陸道(加賀街道)と、信濃追分で中山道から分岐し信越(小諸、上田、長野、高田、直江津)を結ぶ北国街道が交差している。近隣にはそのほか、上州高崎で中山道から分岐し三国峠を越えて出雲崎に至る三国街道、糸魚川から姫川沿いに信濃へと通じる姫川街道などが走っている。信越国境にはそのほか関田峠を越える関田街道、富倉峠を越える飯山街道(富倉街道)、北国街道の高田と三国街道の塩沢宿を結ぶ松之山街道、野尻湖に源を発して関川に沿う関川街道、現在は信越トレイルのコースに関係する梨平峠、牧峠、深坂峠など多くの街道 ・ 峠道が開かれた。上杉謙信の時代には軍用道路として機能し、江戸期には塩の道などの経済動脈として機能した。
ただし、本書は道路・陸路をテーマとするわけではない。縄文時代の昔にあってすでに、遠く朝鮮半島から日本海を越えて能登半島や佐渡ヶ島を経由して越後の沿岸に辿り着き、さらには信濃川や関川、姫川の河口から信濃・上毛野方面へと移住していった人々、いわゆる渡来系の諸衆(中小部族民)庶衆(下層民)が存在していた。私はとくに、紀元5~6世紀までに汀線航路・曳舟航路(舟を奥地へと曳航する航路)を介して上記方面へやって来た高句麗 ・ 百済 ・ 新羅の三国時代、とくに高句麗系の移住民に関心が集中している。その上で、かような人々の足跡をたどってみることを本書のテーマとするのである。なお、半島からの無数無名の移住民は、ここかしこに足跡を残している。それらを手がかりに、本テーマに関して私なりの説明を加えてみようと思いたったのである。
私がなぜかようなテーマに関心を寄せたか、簡単に説明しよう。それは、古墳時代(3-6世紀)以降の歴史が畿内ヤマト政権の地方征服・一元支配から始まるように説かれることへの反発心である。また、環日本海の古代交流は国家間で執り行われるように語られることへの反発心である。それを否定するわけではないが、裏日本沿岸には国家形成以前、紀元前の昔から〔もう一つの交流史〕があったことに注目したいのである。使節や親書を介する国家的 ・ 冊封的な交流に対して、生活の必要性から起こされる民衆サイドの波状的行動を、私は〔諸衆庶衆の交流〕と命名している。むろん、一つの私的試論 ・ 問題提起であって、各方面から批判されてしかるべき性質のものである。」(本文「はしがき」より)

