暴論と真意
能を演じた役者の名前で、その舞台写真の作品性を問う考え方など、実は大嫌いである。
役者の名前を挙げては、誰々の舞台は云々と評した意見や文章を見聞する。
しかし、私にすれば、世の能楽批評家が語る能評など文藝などに価しない。
能批評など能楽理論や型の見解を加えても、しょせんは観客側の後出しジャンケンである。
そんな能評と同様に、いわば一般論として舞台写真も同一に見られる事がたまらなく辛い。
写真家は、そのリアルタイムで舞台の役者と勝負しているのに、評価と地位は極めて低いのだ。
役者の呼吸、動き、癖、その美しさなどを読みとって(瞬時にだ)、時に思いつきだろう、と揶揄されたりするが、そこは違う。結果として失敗しても、見いだす何かを追求しているのだ。
さらに悩ましいのは、『先生方に撮らせて頂いている』的堕落さ、宿痾みたいな意識が既に私にも染み着いていて、自己嫌悪であったりするのも、また事実なのだ。
いささか論旨が破綻するが、能が芸術であるならば写真も芸術であらねば、正当な価値など見いだせるはずもない…世に問う事とは、そういう戦いではないかと思ったりする。


