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最後の別れ

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本日、和泉流狂言方能楽師野村万之介師の訃報が伝えられました。
昨年の師走、私が撮影に入った舞台は、まさに師の命を吐き出すような演技で勤めていました。
撮影しながら、この舞台が万之介師から人々への人生最後の別れなのだろうな…と思うと、舞台を去って行く背中をカメラのファインダーで見ながらたまらなくなりました。。

楽屋で血を吐きながら、それでも舞台に立ちたい役者気質を止めろとは言えない。
そういう場に立ち会う責任も撮影者にはあります。
しかし、人が去ってゆくのは悲しく寂しいです。

役者の気概と意地、最後の舞台を見せて頂いて心より感謝しております。
本当にありがとうございました。

落ち込みが酷い

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年末年始と忙しくて、ろくにクリスマスや正月を味わう時間もなく、体調は低下…。
ブログ更新する気力を喪失しております。

脳内センサーが働かず苛つくだけ、仕事も集中できない季節なんですよねぇ。

普通ならは、酒でも飲んで忘れてしまうのに、今回は心身ともに落ち込みが激しくてダウン気味。

まぁ、こんな時期もあるかな。

暴論と真意

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能を演じた役者の名前で、その舞台写真の作品性を問う考え方など、実は大嫌いである。
役者の名前を挙げては、誰々の舞台は云々と評した意見や文章を見聞する。
しかし、私にすれば、世の能楽批評家が語る能評など文藝などに価しない。
能批評など能楽理論や型の見解を加えても、しょせんは観客側の後出しジャンケンである。

そんな能評と同様に、いわば一般論として舞台写真も同一に見られる事がたまらなく辛い。
写真家は、そのリアルタイムで舞台の役者と勝負しているのに、評価と地位は極めて低いのだ。

役者の呼吸、動き、癖、その美しさなどを読みとって(瞬時にだ)、時に思いつきだろう、と揶揄されたりするが、そこは違う。結果として失敗しても、見いだす何かを追求しているのだ。
さらに悩ましいのは、『先生方に撮らせて頂いている』的堕落さ、宿痾みたいな意識が既に私にも染み着いていて、自己嫌悪であったりするのも、また事実なのだ。
いささか論旨が破綻するが、能が芸術であるならば写真も芸術であらねば、正当な価値など見いだせるはずもない…世に問う事とは、そういう戦いではないかと思ったりする。