日本は周囲を海に囲まれている、(^_-)-☆😇😉🌊。これは国を守るには大きなメリットになるとともに資源や食料を運び込むには大きな障害となる、(^_^;)😇😅⛴️。日本は資源に乏しいので資源や食料などは海外から船⛴️で運んでこないといけない、(^_^;)😇😅⛴️。太平洋戦争中は東南アジアの資源地帯から石油、ボーキサイト、錫、ゴムなどの戦略物資を船便で輸送していたが、米軍はこの海上輸送路を潜水艦で妨害して日米の海上輸送路攻防戦が始まった、(--〆)😠🤬👿。
当初は米軍側の不慣れや魚雷の欠陥などで被害は大したことはなかったが、昭和18年頃から船舶⛴️の被害が急増して日本海軍も船団護衛用の海防艦を大量建造するとともに旧式駆逐艦、掃海艦、水雷艦、敷設艦などの小型艦艇に対潜装備をして船団護衛を行ったが、その中心になったのはブロック工法で大量建造した海防艦だった、(--〆)😠🤬👿⛴️。海防艦は排水量700トンから900トン、12センチ高角砲2〜3門、爆雷と対空機銃を多数装備した速力16ノットから19ノットの護衛艦で100隻以上が建造された、(--〆)😠🤬👿⛴️。
しかし米軍側はレーダーを駆使して夜間などに数隻が共同して日本船団を攻撃して海上輸送路を締め上げた、(--〆)😠🤬👿⛴️。海防艦も健闘したが、米軍潜水艦よりも低速で水中音響兵器の精度不足、ピンポイントで潜水艦の位置を特定できないなど、や対潜前投兵器がなかったことなどが災いして船団⛴️を守りきることができなかった、(--〆)😠🤬👿⛴️。開戦時日本が保有していた船舶保有量は634万トンで戦争中に300万トンを建造したが、最終的に残ったのは220万トンで700万トンが撃沈された。陸軍は本土決戦などと息巻いていたが、昭和20年10月以降は戦闘機を飛ばす燃料もないというありさまだった、・・(>_<)。
海防艦も終戦までに完成した海防艦167隻のうち71隻が潜水艦や航空機の攻撃で失われて海防艦乗組員の戦死者は1万人以上だそうだ。海防艦の乗組員は東京及び神戸の高等商船学校出身の海軍予備将校で一般商船の高級船員がそのまま充員召集されて海防艦長、航海長、機関長などの任務に当たった。また乗組員も各方面から集められた寄せ集めだった。それでも戦争遂行に不可欠なシーレーン防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の決死の活躍は十分評価に値するといえるだろう。
また生産性の向上を徹底的に追求する中でブロック工法や電気溶接を本格的に採用して戦後の造船技術の復活にも貢献した。生き残った海防艦の多くは復員業務に従事した後に賠償艦として連合軍に引き渡されたが、日振型と鵜来型のうち志賀など計5隻がおじか型巡視船として海上保安庁で再就役して昭和30年代後半まで活躍した。
さらに戦後深刻な商戦不足で浅瀬に擱座していた大型商船が浮揚されて再就役したり粗製乱造の戦時標準船を改造して戦後の輸送業務に使用したりもした。戦後の海上自衛隊は長い期間戦力の大部分を対潜戦に全振りしたのは太平洋戦争での海上交通路の封鎖で痛い目に遭ったその反省とも言う、・・😅。
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