日本陸海軍のレーダー開発は陸軍が先鞭をつけて1930年代半ばから日本電気や日本無線などと協力して早期警戒用レーダーの開発を進めて1939年2月には航空機から反射される電波を捉えることに成功してその後超短波警戒機甲及びその改良型の超短波警戒機乙を国内に大量配備して日本本土のレーダー警戒システムを完成させている、😇😉(^_^)/~。しかし陸軍の技術導入先は英米よりも技術的に遅れていたドイツであり八木式指向性アンテナの使用やPPIスコープの導入などの技術的進歩がなかったのは痛かった、(ーー゛)😅👿。
一方海軍は一部の技術士官がレーダーの開発を提案したが、「そんな花魁の簪みたいなものを戦艦のマストにつけられるか」とか「電波なんか出したら敵に発見されるだろう」などと言って一蹴されて一部の士官がほそぼそと研究を続けて1940年10月に東京湾に停泊中の赤城からの反射電波を捉えることに成功した程度であった、(^_^;)😅😇。
しかし陸海軍の士官がバトル・オブ・ブリテンを視察してレーダーの重要性を認識して本格的な開発を始めた、😇😉😅(^_^;)。そして1941年9月に距離100キロで一式陸攻を捉えることに成功、更に改良を続けて二式二号電波探信儀一型を戦艦伊勢に、仮称二号電波探信儀二型を戦艦日向に搭載、ミッドウェー海戦に敗れて悪天候の中を撤退する際に二号電波探信儀二型は混乱する艦隊の統制を取るのに大活躍したというが、二式二号電波探信儀一型は採用になったが、二号電波探信儀二型は不採用でその後も改良を続けて1944年7月に採用となった、(^_^;)😇😉😅。
初期のレーダーは雨降り🌧️だと電波が乱反射して役に立たなくなってしまったが、改良によって光学測距儀と同程度の精度を持つようになったという、😇😉😅👿。更に小型軽量の三式一号電波探信儀三型や機上レーダーである三式空六号無線電信機なども開発されている、(^_^;)😅😇。
日本のレーダーの欠点はその性能よりも真空管や銅線などの構成品の質にバラツキがあって作動不安定な機器があったことだという、(ーー゛)😅👿。レーダー原理の簡単な応用で製作可能な近接信管も真空管の質が低くてできなかったそうだ、(ーー゛)😅👿。
しかし海軍のレーダーも性能的には光学測距儀と組み合わせればレーダー射撃も実用域に達していたと言うし、レーダー射撃で敵艦に命中弾を得たこともあるという、😇😉(^_^)/~。米海軍のレーダー射撃も戦後誇らしげに語られるほど精度が高いわけでもなかったそうだ、(^_^;)😇😅。
また戦後に南氷洋捕鯨の出漁の際にレーダーの装備のない捕鯨船に連合国の監督官が乗船することを拒否、敗戦後間もない日本にレーダーの開発をさせることもできず困惑😖していたところGHQが押収していた二号電波探信儀二型が大量にあったことからこれを装備したところ役に立たないだろうという前評判に反してかなりの効果があったそうだ、(^_^;)😅😇。これらのレーダーの整備調整は元海軍の技術士官やメーカーの製造担当者が行ったそうだ、(^_^)/~😇😉😅👿。
レーダーに関しては陸軍が積極的に開発を行っていたが、海軍もその有効性に着目して開発を行い、最終的にはレーダー射撃が可能なまでになっていたので立派に実用域に達していた、(^_^)/~😇😅😅。日本陸海軍はレーダーが実用化できなかったなどというのは大きな間違いではある、(--〆)😠🤬👿。