日本陸海軍は米軍の超重爆B29の情報を得るとこの重爆を迎撃できる戦闘機の開発を始めた、(--〆)😠🤬👿。海軍はエンテ型を採用した異色の戦闘機「震電」を九州飛行機に、陸軍は中島にキ87を、さらに高高度飛行で技術力のある立川飛行機にキ94の開発を命令した、(--〆)😠🤬👿。
中島のキ87は双発軽爆撃機を凌ぐ大型機となったが、低速での飛行は概ね悪い癖もなく良好であった、😇😉🛩️。しかし90度捻って後方に引き込む方式とした主脚の作動が不安定でさらにはエンジン、排気タービンの不調も重なり脚を出したまま5回飛行しただけで開発中止となった、(--〆)😠🤬👿。
海軍の震電はエンテ型のモーターグライダーで飛行試験を重ねて飛行に大きな問題がないことを確認、試作に入ったが、昭和20年8月に3回の試験飛行を行っただけで敗戦となってしまった、(^_^;)😇😅👿。震電はエンジンのトルクで機体が右に傾くこと、境界層を考えない空気取入口の形状でエンジンが冷却不足になること、エンテ型の飛行特性で機首が下がり気味になること、脚が長すぎて折損する危険があることなどの問題があったという、(^_^;)😅😇👿。
キ94は当初は双胴で中央胴体の前後にエンジンを取付ける双発の機体が提案されたが、不時着の際に搭乗員がエンジンで潰される恐れがあること、全体的に計画が奇抜すぎること、エンジンの供給に不安があることなどから白紙に戻して中島のキ87を基本型として高高度戦闘機を開発するよう陸軍から指示があった、(^_^;)😅😇👿。
しかし立川は「中島の機体では要求性能を満たせない」と陸軍の提案を拒否、陸軍は激怒したが、最終的に立川の独自開発を認めた、(^_^;)😅😇👿。立川は単発の与圧室付の大型戦闘機をまとめたが、その機体は「陸軍の白眉」と言われるほど美しい機体だった、😇😅👿🛩️。試作は進んで昭和20年8月に地上滑走試験などを行い、17日に初飛行の予定だったが、敗戦で飛行することはなかった、(ーー゛)😅😇👿。
その後、米軍に接収されたが、米軍は試験飛行は行わずに野ざらしで放置されて朽ち果てたという、(ーー゛)😅🛩️。キ94Ⅱも試験飛行が始まればエンジンや排気タービンの不調などに悩まされたことは間違いないだろう、(ーー゛)😅😇👿。
海軍では震電の他に烈風改という高高度戦闘機を計画していたが、一部の部品が製作されただけで終わった、(ーー゛)😅🛩️👿。結局高度1万メートルでB29を迎え撃つはずだった日本陸海軍の成層圏の狩人たちは震電が3回、キ87が5回の試験飛行を行っただけで高高度を飛行することなく消えて行った、(ーー゛)😇😅👿。