太平洋戦争中の日本の戦闘機は一概に速度が遅い、(ーー゛)😅😇🛩️。海軍の零戦は530キロから565キロ、紫電は574キロ、紫電改は594キロ、雷電は580キロから610キロ程度、戦闘機ではないが、艦上偵察機の彩雲は試験飛行で638キロを記録しているが、量産機は605キロ程度ではある、(ーー゛)😅😇🛩️。陸軍の一式戦は495キロから555キロ、二式単座戦闘機は580キロから615キロ、三式戦は590キロから610キロ、四式戦は624キロ、五式戦は580キロでいずれも500キロ台の後半から600キロを超えたところではある、(^_^;)😇😅🛩️。
米軍の戦闘機は前半のF4FやP40などは500キロ台の半ば程度だったが、後半のF6Fは594キロ、F4Uは680キロ、陸軍のP47は680キロ、P51は700キロを超える高速機である、(ーー゛)😅😇🛩️。英国のスピットファイアも前半の機体は500キロ台の後半だが、後半の機体は700キロを超えているし、ドイツのBF109も前半の機体は500キロ台の後半だが、後期の機体は700キロを超えている、(゜o゜;😅😇🛩️。フォッケウルフも700キロ前後の速度を出している、(--〆)😠🤬👿。
これは一つには設計思想の違いで欧米は速度を重視した一撃離脱戦法の機体を開発したが、日本では格闘性能重視の機体を開発した、(^_^;)😇😅👿🛩️。そのために翼面荷重を下げるために翼面積を大きく取ったのでその分重量と抵抗が増加して速度が伸びなかった、(^_^;)😇😅😅👿🛩️。機械的な理由では後半の欧米の戦闘機は2千馬力級エンジンを装備していたが、日本には安定した性能を発揮できる2千馬力級エンジンがなかったことで最後まで1千馬力級エンジンを搭載していたこともその理由だろう、(--〆)😠🤬👿。
またプロペラの技術も遅れていて米独仏から技術輸入したものを装備していたが、その効率が低かったようだ、(^_^;)😇😅👿🛩️。プロペラは大口径のものをゆっくり回した方が効率がいいそうだが、日本にはそうした大口径プロペラに関するノウハウがなかったようだ、(--〆)😠🤬👿。さらには過給機制作技術が追い付かなかったことも航空での速度性能の足を引っ張っているだろう、・・😅👿😡。また戦争後半になると燃料の欠乏から燃料の質が下がりエンジンの不調が多くなったそうだ、(--〆)😠🤬👿。ドイツは石炭から燃料を製造していたが、日本では法律を作って開発を急いだが、うまく行かなかったようだ、(--〆)😠🤬👿🛩️。さらにはプラグやプラグコードなど電装品やオイルシール技術の問題、空力的知識の欠如なども相まって戦争後半に向かってエンジン出力は低下する一方だった、・・(--〆)👿😅🛩。
戦後の米軍のテストでは向こうのガソリンやオイル、電装品などを使って飛行するとどの機体も概ね1割は速度が上がったとか、・・👿😅😡。ただこれも日米ではテスト飛行の条件が違うので一概には言えないとか、・・(--〆)💦👿😡😅。いずれにしても日本人搭乗員は1対1の格闘戦を好んだ、・・(--〆)👿😡。一方で欧米では速度を生かした一撃離脱戦法を好んだ、・・(--〆)👿😡。もうこれは用兵思想の違いや航空機設計哲学の問題だろう、・・😅。
でも雷電など作らずに零戦の翼を切り詰めて機体を補強して金星エンジンを積んだらそこそこ使える局地戦闘機になったんじゃないだろうか、・・👿😡。最大の問題は大馬力エンジンが作れなかったことだろう、・・(--〆)👿😡。これに尽きるだろう、・・(--〆)👿😡😅。
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