太平洋戦争中日米は様々な航空機を開発した。戦争前半はどちらも性能は拮抗していたが、後半になると日米の航空機、特に戦闘機の性能はかなりの差が生じてしまった。特に速度では大きな差が生じてしまった。その理由はなんだろうか、❔。第一の理由は日本側が戦闘機用大馬力エンジンの開発が出来なかったことがある。当時の日本では海軍が肩入れした中島の誉エンジンと三菱の金星を18気筒化したハ43があったが、誉は小型高出力を狙ったために当時の日本の技術力を超える設計であり燃料やオイル精製技術、オイルシール、電装系などの技術が劣っていたことから額面性能を発揮出来ずトラブルも多くてまともに稼働しなかった。また誉の排気量は36リッターで米国の代表的な2000馬力級エンジンのダブルワスプは46リッターも排気量があったので今風に言えばV6 3.5リッターとV8 4.5リッターほどの違いがあり一口に2000馬力級と言ってもパワーにはかなりの差があった、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)。第二の理由は日本の戦闘機は翼面積を大きくして機体の運動性を重視していたことがある。翼を大きくすると運動性は向上するが、重量や抵抗が増加して速度は低下する。戦争前半の零戦21型の翼面荷重は102キロ/㎡だか、零戦のライバルだったグラマンF4Fは140キロ/㎡、後半の紫電改は170キロ/㎡のところグラマンF6Fは190キロ/㎡で零戦の後継機と言われた烈風などは全備重量でグラマンF6Fよりも1.5トンも軽いのに翼面積は同じというバカでかい翼をつけていた。烈風の翼面荷重を170キロ/㎡くらいにしておけば速度はそれなりに上がっただろうが、運動性は低下しただろう。速度と運動性はトレードオフの関係にある、\(゜ロ\)(/ロ゜)/(ーー;)。ちなみに米海軍機の翼面荷重は190キロ/㎡くらい、陸軍機は200キロ/㎡を超えていたが、日本海軍機は150から170キロ/㎡、陸軍機も4式戦疾風などが185キロ/㎡ほどで日本側は運動性重視、米国側は速度重視の傾向がある。当時の世界の潮流は速度重視だった。もっとも戦争末期に試作された対B29迎撃用の高高度戦闘機になると翼面荷重は軒並み200キロ/㎡を超えているが、これは速度がないと高速のB29に反復攻撃をかけられないことと爆撃機相手なら運動性はさほど必要ないからだろう。しかしこれらすべての機体はエンジン不調、爆撃による生産設備の破壊、資材不足などで試作中に終戦になっている。当時の戦闘機の性能の違いは日米の戦闘機に対するフィロソフィの違いでもあるが、日本側が小型軽量にこだわったことや技術不足で安定した大出力エンジンが作れなかったことに加えて一騎打ちを好む日本人パイロットが格闘戦にこだわったために翼面荷重の低い運動性のいい機体を要求したことで運動性とトレードオフの関係で速度が低下したのだろう。しかし戦争末期には燃料の質の低下や物質の不足、人材の不足で戦闘機そのものの質の低下、そして人材や物資の不足による稼働率の低下で性能だけではなく数でも圧倒された。パワーの小さいエンジンを使わざるを得なかったことで強武装、長い航続距離、軽快な運動性を得るために機体構造や防御力を犠牲にしたことがソロモン諸島の消耗戦で多数の熟練搭乗員を失うことになりこれが戦力の消耗に拍車をかけた。今時の車🚙もそうだが、性能を上げるにはやはりパワーを上げるに限る。零戦は武装の強化、防御力の強化、機体構造の強化など装備が増したのにエンジンのパワーが変わらなかったので相対的に性能が低下してしまった。零戦も52型を出した時点でエンジンを三菱の金星に換装して武装は13ミリ機銃4門で20ミリ機銃を廃止してしまえばもう少しはまともに米軍の戦闘機と戦えたかもしれない、\(^_^)/🙆🆗🛩️。戦闘機用の大出力エンジンが作れなかったこと、それだけで日本は米国には勝てなかったということになる、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)。日本の戦闘機の速度が低かったことは用兵哲学、技術不足、資材不足が原因だが、飛行機も車🚙も「性能=パワー」でありこれが満たされなかったことがもっとも大きい理由だろう。航空自衛隊の次期戦闘機開発でF9という戦闘機用大出力エンジンを試作したのは「日本だってその気になればエンジンだって作れるんだぞ」という技術レベルを示すためでF9をそのまま使うわけではないだろう。それでも戦闘機用大出力エンジンが作れるようになったことは大したものではある。技術力のレベルは冷徹なものではある、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)😁🌀😱💧😅。