日本人の信仰というのはそこに神社仏閣があれば取り敢えず小銭を賽銭箱に投げ入れて拝んで家内安全、健康、学業、商売繁昌、交通安全、恋愛、安産など実利を祈っておくのが普通で特に信仰とは関係はないようだ。もちろん真剣に特定の宗教を信仰されている人も大勢いるだろう。江戸時代は街中にお稲荷さんがたくさんあったという。不吉なことが起こった場所をお稲荷さんにしてしまえば不吉はリセットされて賽銭で儲かるからだそうだ、\(^_^)/🙆🆗✨✊😜。江戸時代の人はなかなか機知に溢れていたようだ。それでは本当に神様がいるかと聞かれれば自分としては答えは「ノー」である。だいたい神社仏閣というと金💴や色にまつわるトラブルが多くて生臭い。神様も仏様もあったものじゃない。ただそれはその人次第で神様や仏様がいると信じている人の内面には存在するのだろう。それから信仰というのは人の内心の問題で実利を願っても意味がない。例えば自分ではどうにもならないこと、人の生き死にとか人生の様々な突発的事案とか、そういったことを神の意志にすれば心的苦悩は軽減されるだろう。でも「宝くじ当たりますように」と願って叶ったとしてもそれは偶然のなせることで神様や仏様のおかげではない。神様仏様はいないと言ったが、お釈迦様やキリスト様、モハメッド様は実在した。遠藤周作さんによればキリスト様は奇跡などは起こせなかったという。たまには弟子に腹を立ててひっ叩いたらてんかんが治ったなんてこともあったかもしれないが、ただ喜怒哀楽を人と共有することに非常に長けていたという。他人の喜びや悲しみ、あるいは苦難といったものを自分のこととして喜んだり悲しんだりできたのだろう。そうしたカリスマ性が人々の共感を得たのかもしれない。信仰における神とはその個人が考え得る最高の良心で神と向き合うということはその良心と向き合うことなのかもしれない。では信仰のないものは良心と向き合わないのかというとそういうことはなく道徳的な良心と向き合っているのだろう。ただ最近は自分自身が良心でそれを他人に押しつけたり善悪を自分の良心で分ける輩が多いが、物事の良し悪しと信仰とはまた別の問題ではある。まあたまに神社仏閣に立ち寄ったら賽銭箱に小銭を投げ入れて「宝くじが当たりますように」とか「受験に合格しますように」とか「彼氏、彼女、とうまくいきますように」なんて祈っている方がむやみやたら信心にのめり込むよりは平和なのかもしれない、😁🌀😱💧👀‼️😅🐍🐲🦩🦢🦅⛩️。