中島は2千馬力級戦闘機用エンジンの開発を昭和15年から始めた。一方三菱は中島の後を追って昭和16年から始めた。中島のエンジンは14気筒の栄エンジンの18気筒化で排気量は35リットル、小型軽量高回転で馬力を稼ぐ形式に、一方三菱は安定性で定評のある金星エンジンを18気筒化で排気量は41リットル、排気量は中島のものよりやや大きいがこちらも小型軽量高出力を狙ったエンジンの開発を中島より1年遅れで始めた。中島のエンジンは海軍の肝煎りで開発が進められたが、エンジンの冷却、ケルメット軸受の焼損、異常燃焼による出力低下などトラブルが相次いで起こっていた。

 

三菱のハ43は戦争後期に入っても試作の域を出ず「安定した金星エンジンを基にしているのでトラブルは少ないだろう」という意見もあったが、「量産が進めばハ45と同様にトラブルが発生するだろう」と見る海軍側関係者も少なくなかった。いずれにしてもどちらのエンジンも小型軽量高出力エンジンで燃料は100オクタンガソリンに加えて高品質のオイルを必要としたが、当時の日本では100オクタンガソリンを精製することが出来ず、また高品質の化学合成オイルも合わせて米国から輸入していた。またベテラン工が召集されて学生などの徴用工が多くなっていたので工作不良なども増加していた。こんなに状況ではハ43にしても無事に量産に移行してトラブルが発生しないということは考えられない。

 

当時の日本にある程度の高性能エンジン生産技術があれば昭和18年にハ45、19年にハ43という具合に制式化されて航空機に搭載されていればその頃に開発された航空機はそこそこの性能が出せたかもしれない。しかし国内にない物資を使って性能云々しても意味がない。開戦前に日独伊三国軍事同盟を締結した際に山本五十六が「三国同盟締結で英米圏から調達していた戦略物資をすべて失うことになるが、物動計画をどう変更したのか」と海軍大臣を追及するが、「やむを得ず」で終わってしまう。国力で劣り技術が遅れて物資もないという状況でよくも米国相手に戦争など始めたものだ。

 

仮に昭和18年にハ45が、19年にハ43が実用化されて安定した性能を発揮していれば海軍の紫電や紫電改、陸軍の4式戦などもその高性能を発揮しただろうし零戦の後継の烈風も昭和19年の後半には戦線に投入されていただろう。ハ43を搭載した烈風11型を試験した担当者の一人が「この戦闘機2千機があれば戦局の転換も可能」と言ったとか。一部ネットで「烈風200機あれば、・・。」と誤った数字が使われているが、200機ではどうにもならないだろう。F2が200機なら戦局の転換も可能だっただろうが、・・。でも烈風2千機でも戦局を覆すのは無理だろう。個々の戦闘で若干有利な戦闘が出来たという程度だろう。

 

結局日本は技術の遅れから大馬力戦闘機用エンジンの実用化が出来ずに苦戦したが、日本を敗戦に追い込んだのは日米の圧倒的な工業生産力の差、要するに国力の差だった。仮に昭和19年の後半に烈風が量産に入ったとしても資源も先細りでB29の空襲によって破壊されていく生産設備では2千機を作るのは無理だっただろう。持てる力のすべてを対米戦に注ぎ込んだ日本だが、現実は冷酷だった、・・(>_<)。

 

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