かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。日本陸軍が1933年に初めて開発した94式37mm砲は、その後の戦車の装甲の強化によって威力面の不足が目立つようになってきた。

とはいえ、1939年のノモンハン事件では、ソ連軍のBTやT-26を94式37mm砲で撃破できたのでとりあえず危機は乗り越えられたが、新型対戦車砲の開発は喫緊の問題とされた。そこで、1937年に研究を進めていた試製97式47mm砲をベースにした開発を、 1939年に至ってさらに推進することとなった。こうして1942年5月、1式機動47mm砲が制式化された。なお、名称に付加された「機動」の持つ意味は、輓馬牽引(ばんばけんいん)で木製や金属製の車輪を備えた火砲に対し、サスペンションを備えたゴムタイヤを備え、車両による高速牽引が可能であることを示す。

日本陸軍では対戦車砲を速射砲と呼んだが、本砲の正式名称には速射砲の言葉は用いられていない。代表的な徹甲弾である1式徹甲弾(てっこうだん)は、実際には内部に炸薬(さくやく)が充填された徹甲榴弾(てっこうりゅうだん)である。世界的に40~50mm級の中口径対戦車砲の徹甲弾を徹甲榴弾化することは、得失の点で判断が難しいとされる。というのも、運動エネルギーで装甲を貫徹する徹甲弾は、重いほうが装甲貫徹力が向上するだけでなく、砲弾の強度もムクの金属製のほうが高くなるからだ。一方で装甲貫徹後に砲弾が炸裂すれば、戦車内部での殺傷能力が高くなる。

こういった事情から、小口径でただでさえ徹甲弾の重量が軽いのに、その徹甲弾の内部をえぐった空間に炸薬を充填すればさらに軽くなって装甲貫徹力が低下。おまけに小口径砲弾の少量の炸薬充填量では、ムクの徹甲弾の装甲貫徹後の破壊力と、徹甲榴弾の装甲貫徹後の炸薬の炸裂の威力が大差ない場合もあって、得失の判断が難しいのだ。

1式機動47mm砲は、主に独立速射砲大隊に装備されて太平洋戦争中盤以降、実戦に用いられた。もっとも多用された1式徹甲弾(実際は徹甲榴弾)が直角(90度)で命中した場合、1000mで約50mm、500mで約65mmの装甲板を貫徹することができた。そのため、アメリカ製のM4シャーマンに対しては、近距離でなければその正面装甲の貫徹が難しいとされたが、側面や背面は一定の距離で貫徹できたので、若干の威力不足とされながらも、速射砲兵の判断で至近距離射撃を多用する果敢な戦闘を挑んだ。その結果、本砲はアメリカ軍車両多数を撃破する戦績を残している。なお、1式機動47mm砲の生産数は約2300門と伝えられる。(白石 光)

 

アメリカ軍戦車多数を撃破した日本陸軍の火砲【1式機動47mm砲】(歴史人) - Yahoo!ニュース

 

日本は油圧による制退技術や冶金技術などが遅れていたので火砲も砲弾も欧米のそれと比較すると劣っていた。そんな状況の中で94式37ミリ速射砲が威力不足で米英軍の戦車に対抗できなくなってしまったことからこの47ミリ速射砲が配備された。世界的には戦車砲も対戦車砲も75ミリ以上となっていた中で47ミリでは威力不足は免れなかったが、それでも米軍のM4中戦車に対して野砲や高射砲と連携して至近距離や側面からの射撃で多数を撃破している。英軍はこの47ミリ速射砲を称して「撃たれるといやな砲だった」と評価している。口径が小さく砲弾の強度も低かったが、それでも撃たれる側からすれば嫌な砲だったのだろう。また日本軍の砲兵は練度が高く極めて精密な射撃によって米軍のM4などを撃破したと言う。47ミリ速射砲は連合軍やドイツ軍の砲から見れば口径も小さく威力も低い砲ではあったが、決して無力な砲ではなかった、・・(-_-メ)。

 

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