日本陸軍の対戦車砲と言えば口径の小さい順に97式自動砲、これは20ミリの半自動砲で貫徹力は距離200メートルから700メートルで30ミリから20ミリ程度、戦車の重装甲化に伴い世界的にも消えて行った兵器だが、一部の部隊では全自動に改修して対空機銃として使用している。重量は60キロにもなり操作には10名を要したという。次は94式37ミリ対戦車砲でこの砲は広く陸軍に行き渡っていて戦車砲にも使用されたし二式複戦にも搭載された。貫徹力は至近距離、100メートル程度か、で50ミリ、300メートルで30ミリ、800メートルで25ミリ、1000メートルで20ミリ程度で米軍のM3軽戦車の前面装甲を貫徹できなかった。そのためハッチの蝶番を狙って射撃して撃破するとか操縦席の視察孔を狙うとか連続して命中させてその衝撃で内部の機器を破壊するとか神業のような戦闘を行った。装薬を増やして威力を上げようとしたが、軽量化のため各部の強度が不足して果たせなかったという。後に一式37ミリ対戦車砲では多少威力が増しているが、37ミリという口径自体が太平洋戦争ではすでに時代遅れだった。次は一式47ミリ対戦車砲でこの砲は太平洋戦争中期以降に使用された。貫徹力は距離500メートルで65ミリ、1000メートルで50ミリ、1500メートルで45ミリで米軍のM3軽戦車の前面装甲を貫徹して兵士を喜ばせたが、M4中戦車が出て来るとその前面装甲を貫徹することはできなかった。しかし側面、後面であれば貫徹できたという。また500メートル以下であればM4中戦車の正面装甲を貫徹できたというが、当時の戦車戦の交戦距離は1千メートル前後で500メートル以下だと相手の弾もガンガン当たるので巧妙な偽装隠ぺいをして複数でうまくカバーし合って戦ったようだ。そうして硫黄島や沖縄では高射砲や野砲などと連携して多数のM4中戦車を撃破している。日本陸軍は敵に劣った兵器で何ともよく戦う軍隊で同じ条件で戦えば強かっただろう。まあそれが出来なかったから負けたのだが。一式47ミリ対戦車砲は太平洋戦争当時の標準砲が75ミリクラスだったのですでに威力不足だったが、英軍はこの砲を「威力のある嫌な砲」と言っているので撃たれる側には嫌な砲だったのだろう。最後は試製57ミリ対戦車砲だが、これは威力不足ということで試作で終わっている。その他対戦車砲として転用された砲で代表的なものは90式野砲でこの砲は一式砲戦車や三式中戦車の主砲としても採用されている。また88式7センチ半高射砲も水平にして戦車を射撃して撃破している。38式野砲や41式山砲なども対戦車砲として転用している。巧妙に偽装して至近距離から射撃すると装甲を貫徹できなくても衝撃で破壊できたそうだ。四式戦車の主砲はスウェーデンのボフォース社製高射砲のコピーだが、量産出来ず戦車砲用の割り当てはごく少数だったそうだ。戦車の装甲板を潜水艦に転用されたり日本陸軍は戦車をあまり重視していなかったようだ。対戦車砲もなく転用できる火砲もなく歩兵用の対戦車兵器もなかった場合は布団爆雷と言って20キロの梱包爆薬を人間が背負って戦車に飛び込んで破壊したという。それでも接近する前に戦車の機銃で倒されて接近するのは至難だったという。こうなるとただひたすら悲惨でしかない。日本陸軍はは火砲製作技術レベルが低くて独自の火砲が製作出来ずドイツやフランスの技術を導入していた。機動力が貧弱な日本陸軍は火砲を軽く作る必要がありその分砲各部の強度が低く機動性や射程などで欧米の火砲に劣ったそうだ。味方が撃つ弾はみんな弾かれ敵の弾はまるで段ボールでも貫くように味方の戦車を破壊していく。最後は体当たりして零距離で射撃して敵と刺し違える。「敵の戦車の装甲を貫徹できる砲をくれれば絶対に負けない」それは威力の低い火砲で米軍戦車と神業のような戦闘を行った日本陸軍対戦車兵の血の叫びだったのだろう。