欧米では魚雷艇の研究、建造が行われていたことから日本海軍も1930年代後半に魚雷艇の試作に着手した。主に英国やイタリアの魚雷艇を購入して研究し、1942年に魚雷艇1号を6隻建造した。しかしその頃には米軍はPTボートという魚雷艇を大量に建造してソロモン諸島方面に投入、日本軍の海上輸送路を脅かしていた。日本海軍はその対応に苦心して大発に機銃を装備したり陸軍から借用した対戦車砲を載せて対抗したが、速力が40ノットと8ノットでは話にならず被害が増加した。日本海軍は魚雷艇を大量建造しようとしたが、問題はエンジンで当時の日本には小型軽量高出力のエンジンがなかった。そこで目をつけたのが旧式化した航空機から取り外した中古エンジンでこれを片っ端から搭載したが、多種多様なエンジンを搭載した上にエンジン自体の性能にもバラつきがあり艇の性能もまちまちで高速が出ないものもありそのような艇は雑役艇に編入された。また米軍の魚雷艇駆逐と味方輸送艇防護のために魚雷を搭載せずに機銃を増備した艇も作られた。しかしいずれにしてもしりに火がついてからの付け焼刃で慌てて高速艇を建造したが、例によってエンジンのトラブルが響いて日本海軍の高速艇は機能しなかった。結局西太平洋における日米の艦隊決戦思想に囚われてそれに向けた海軍を建造してきたので島嶼部で小型高速艇で戦闘するなどということには考えが到らなかった。小沢治三郎でさえ部下に「予算が余っているので魚雷艇でも作ってみましょうか」と具申されたが、「そんなもの役になんか立つものか」と言下に否定している。結局高速艇の建造に不慣れだったことや適当なエンジンがなかったことなどここでもエンジンで足を引っ張られている。それでも海軍水雷学校に魚雷艇部(のちに水雷学校分校)を設置して乗員の養成に努めてはいるが、乗員は震洋艇の要員となったのだろう。またエンジンもパワーウエイトレシオでは世界トップクラスの2ストロークディーゼルエンジンが開発されたが、これも例によって戦争には間に合わなかった。もう少し早めに計画しておけばいいのだが、貧乏海軍ではあっちもこっちもと言うようなわけにはいかなかったのだろう。小舟で島伝いに輸送などその時点で兵站補給が崩壊しているが、その小舟を守るために速力25ノットから30ノット程度、武装は25ミリ機銃1門、13ミリ機銃2門程度の中速艇が何隻かついていればPTボートの攻撃をある程度は防げただろう。でも日本軍て何時も遅いんだよな、・・(◎_◎;)。

 

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