1930年代になって航空機の性能が劇的に進歩して艦船にとって無視できない脅威になってくると英国は旧式巡洋艦の主砲や魚雷をすべて撤去して高角砲10門を搭載したダイドー級防空巡洋艦を建造、米国も12.7センチ高角砲12門を搭載したアトランタ型防空巡洋艦を建造した。日本海軍は旧式巡洋艦を改装する予定だったが、水雷戦重視の思想から中止となり1939年に高角砲8門、速力35ノット、航続距離18ノットで1万海里の防空艦建造が決まった。しかしこれでは排水量が4千トンを超えることから速力33ノット、航続距離18ノットで8千海里として艦形の小型化を図ったが、魚雷バカの日本海軍はこの時点で4連装魚雷発射管1基に予備魚雷4本を搭載することにして艦種は駆逐艦と決まった。それでも満載排水量は3800トンと4千トンに近かった。この艦の肝は98式長10センチ連装高角砲でこの砲は日本海軍の主力高角砲の40口径12.7センチ連装高角砲と比較すると最大射程も最大射高も1.4倍以上で最大射程は19500メートル、最大射高は14700メートルで砲自体は極めて優秀な砲だったが、光学照準装置だけでレーダーと連動した射撃指揮装置がなかったので射撃の精度は操作員の能力に頼っていた。後日レーダーが装備されると来襲する敵機の方位、距離、機数が分かるようになって対空戦闘には必須の装備となった。94式射撃指揮装置は2基装備される予定だったが、最後まで1基しか装備されず同時に2目標を射撃することはできなかった。一番艦秋月は1942年6月に竣工、以降11隻が完成している。秋月は完成するとソロモン諸島方面の輸送作戦に投入され、
自慢の主砲でB17爆撃機1機を撃墜するなどしたが、魚雷を受けて大破、エンガノ岬沖海戦で沈没した。二番艦照月はソロモン諸島方面で沈没、三番艦涼月はソロモン諸島方面で被雷、修理後大和と沖縄に向かうが、大破、後進で佐世保に帰港、そのまま防空砲台として終戦を迎える。初月はマリアナ沖海戦に参加、次のエンガノ岬沖海戦で沈没艦の乗員救助中に米重巡洋艦3隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦12隻と遭遇、
2時間の砲戦の後に撃沈されたが、味方艦が退却する時間をかせいだ。新月はソロモン諸島方面で輸送作戦従事中米艦と交戦沈没、若月はソロモン諸島方面の輸送作戦などに従事、マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦を生き抜いたが、レイテ島輸送作戦で沈没、霜月はマリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦を生き抜いたが、その後レイテ方面に移動中、米潜水艦の雷撃で沈没、冬月は戦艦大和とともに沖縄に出撃、その後は門司で防空砲台として使用され戦後解体、船体は涼月とともに若松港の防波堤に利用された。春月、宵月、夏月、満月、花月は竣工したが、戦闘に参加することなく戦後は復員艦として利用されるなどした後に賠償艦として戦勝国に引き渡されあるいは解体された。これ以降の艦は建造中止となった。秋月型防空駆逐艦は戦時中の建造で竣工と同時に戦線に投入され数が揃わないまま完全な戦隊を組むことなく戦没して行った。後期竣工艦はすでに連合艦隊は壊滅して活躍の場はなかった。しかし背負式に4基の砲塔を備えた艦形はなかなか重厚で駆逐艦とは思えない艦容ではある。この艦が数が揃って戦隊を組んで空母の護衛として活動したらそれなりに成果を挙げたかもしれない。エンガノ岬沖海戦で米巡洋艦群と砲戦を交えて撃沈された初月を米軍は阿賀野型軽巡洋艦と認識していたようだが、それもやむを得ないような艦形ではある。日本海軍はこの防空駆逐艦の大量建造を計画していたようだが、それは正しい決断だったと思う。まとまった数があれば防空の任務をよく果たしたと思う、\(^_^)/🙆🆗🎃😅。