太平洋戦争開戦時、日本海軍は特型駆逐艦以降夕雲型まで90隻近い一等駆逐艦を保有していた。これらの駆逐艦は艦隊決戦に際して進攻して来る米主力艦に魚雷攻撃をかけて米主力艦の数を減らすことを任務としていた。ところが蓋を開けてみると主力艦同士の艦隊決戦など生起せず空母機動艦隊による航空打撃戦や島嶼攻略戦が主体となり駆逐艦は艦隊護衛、輸送船団護衛、攻略戦支援、キスカ、ガダルカナル撤退戦など戦前は予想もしなかった様々な任務に投入され、1942年にガダルカナル島の飛行場を巡る攻防戦が始まると駆逐艦は輸送船団護衛だけでなく自らドラム缶に武器弾薬や糧食を詰めてガダルカナル島の日本軍に対する輸送任務にも投入され、米軍艦艇や航空機の妨害に被害を拡大していった。こうした本来駆逐艦の役目ではない任務に投入されて駆逐艦は急速に消耗して艦隊編成にも事欠くようなレベルに陥ってしまった。当時戦闘は対空戦、対潜戦が駆逐艦の任務の主体となっていたが、日本の駆逐艦は水雷戦に特化したもので艦隊型駆逐艦は不得手な戦闘に投入されて消耗していった。そうした対空対潜戦闘に適合した防空駆逐艦の秋月型や対空、対潜戦に特化した松型駆逐艦が建造されたが、1944年10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅してしまった。そして特型から夕雲型まで90隻以上あった艦隊型駆逐艦で終戦まで残ったのは響、初霜、雪風の3隻だけだった。しかし初霜は大破擱座状態で戦後浮揚解体され、雪風は中華民国へ、響はソ連へ賠償艦として引き渡された。日本海軍は水雷戦に特化した駆逐艦の夜戦によって米主力艦隊に打撃を与えて主力艦同士の艦隊決戦に勝利することを目的として艦隊型駆逐艦の大量建造をしたが、ふたを開けてみれば駆逐艦の役割は艦隊護衛、対空対潜戦、輸送船団護衛、攻略支援など当初とは全く違う戦闘に投入されて消耗していった。そして開戦時から存在した90隻以上の艦隊型駆逐艦は3年半の間にそのほとんどが失われてしまった。駆逐艦は菊の紋章を抱かず軍艦として扱われず一種の消耗品として扱われたが、身を捨てたその決死の活躍は後世に伝えられるべきだろう、・・。
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