日本海軍の空母隼膺は元々は日本郵船の北米航路用の貨客船として建造される予定の大型高速貨客船だったが、海軍の補助を受けて有事には空母に改装することを条件に建造を始めたが、世界情勢の緊迫化によって建造途中で空母に改装されることになった。満載排水量は3万トン近い巨艦だったが、元が商船改装の特設空母だったので速力は25ノットと正規空母より10ノット近く遅く防御力も正規に軍艦として建造された空母より劣っていたが、飛行甲板の規模や搭載機数は飛龍などの中型空母に匹敵したし、日本海軍が改装した商船改装空母で実際に空母として活用されたのはこの隼膺と同型艦の飛膺だけだった。また建造に際しては大型重装甲空母大鳳建造のテストケースとして右舷に大型の艦橋構造物を設置している。1942年5月に完成した隼膺はミッドウェー攻略のおとり作戦として小型空母龍驤とともにダッチハーバー空襲に参加、帰還したが、ミッドウェー海戦で主力4空母を失った日本海軍に残った正規空母は翔鶴、瑞鶴だけで速力が遅く防御力が弱いとは言っても隼鷹、飛鷹は貴重な空母戦力だった。隼膺は7月に完成した姉妹艦飛膺と第二航空戦隊を構成、ソロモン諸島方面で海戦に参加し、また輸送任務に従事した。1942年10月の南太平洋海戦では瑞鶴とともに米機動部隊を追撃して空母ホーネットを撃沈するが、搭載機の大部分を失った。1943年中は大きな海戦はなく隼膺は飛膺ともにトラック諸島、シンガポール方面などへの輸送任務に従事するが、同年11月に本土帰還途中で米潜水艦の雷撃を受け魚雷一本が艦尾に命中、航行不能となって重巡利根に曳航されて帰還した。帰還後修理とともに木材などの可燃物を撤去するとともに防御力の強化に努めたが、隼膺は飛膺に比べて商船として建造された部分が広範囲で改修には苦労したと言う。そして第二航空戦隊旗艦としてマリアナ沖海戦に出撃するが、圧倒的な米海軍の戦力の前に完敗、僚艦飛鷹を失い自らも煙突に直撃弾を受け損傷、至近弾により空母としての発着艦機能を失った。その後被害個所を修復するとともに不燃化の徹底、対空火器の増設などの改修を行い第四航空戦隊に編入されるが、搭載機は他に転用され搭載航空機もなくレイテ沖海戦は参加せず以後は空母の格納庫と飛行甲板を活用した高速輸送艦として物資の輸送に従事した。1944年12月、マニラへの物資輸送の帰路、米潜水艦の発射した魚雷2本が右舷艦首と中央部に命中、右舷傾斜18度を生じたが、左舷の機関で13ノットを発揮して帰還した。護衛の駆逐艦は隼鷹が転覆するのではないかとハラハラしながら見守ったと言う。帰還後船体の補修は行われたが、機関の修理は行われず、佐世保で係留放置された。隼鷹の偽装は巧妙だったのか空襲は受けなかったが、機関の修理がされず片舷航行では外洋航行は不可能とされて幅員輸送には使用されず1946年6月に解体が開始され1947年8月に終了、隼鷹はこの世から姿を消した。本来であれば北米航路の大型高速貨客船として米加の客船会社の客船と華やかな競争を繰り広げたであろう橿原丸は戦争が終了しても華やかな旅客船に戻ることなく海軍空母隼鷹として日本海軍機動部隊の一翼を担って活躍し、空母のままその生涯を終えた、・・。