空母信濃は大和型戦艦3番艦を改造して建造した空母である。この艦は1940年4月に横須賀で建造が開始された。4番艦は呉で建造が開始されている。本来は1945年に大和型3番艦として完成するはずだったが、ミッドウエーで主力空母4隻を失ったことから大和型3番艦、4番艦は建造中止になるはずだったが、4番艦は解体されて資材は伊勢型の改装や改飛龍型空母の建造に流用されたが、工事が70%まで進んだ信濃を解体することは多数の工員を使う一大事業で作業員も大量に必要なことから解体か転用か、議論の末、空母に改装することになった。空母としての信濃は固有の艦載機を持たず洋上基地として活用することになった。しかしさすがに自艦の直衞戦闘機だけは搭載することにしたが、最終的には戦闘機18機、攻撃機18機、偵察機6機を搭載することになった。機種は戦闘機が紫電改、攻撃機が流星、偵察機が彩雲だった。こうして信濃の空母改装が始まったが、1943年、戦闘での損傷艦の修理や松型駆逐艦、潜水艦の建造、既存艦の改造が優先され信濃の改造は停滞してしまった。しかし1944年6月のマリアナ沖海戦で日本海軍は主力空母大鳳、翔鶴、飛膺の3隻を失った日本海軍は10月までに空母信濃を竣工させることとして工事や試験を簡略化することにした。10月の進水式ではドックの扉船に不備があり海水がドック内に一気に流入、船体を繋ぎ止めていたワイヤーやロープをすべて切断、船体の前後をドックの壁に何度も衝突させて損傷してその修理に1ヶ月を要し、竣工は1944年11月になった。竣工すると信濃は東京湾で航空機の発着艦試験を実施、零戦、天山などの実用機や紫電改、流星、彩雲などの新型機が信濃で発着艦している。そして信濃は海軍に引き渡されたが、その頃横須賀上空にB29の偵察機型が飛来したことから爆撃を受けることを恐れた改造は信濃を呉に回航することにした。呉に回航するもう一つの理由は横須賀海軍工廠は徴用工が多く採用されていて工作技術レベルが低下していたことからレベルの高い呉で残りの工事を行うことにしたこともあった。また信濃は竣工したとは言え主機は12基のうち8基しか使用出来ず速力は20~21ノット止まり、武装はほとんど搭載されておらず艦内は工事用のケーブルが床を這っていてハッチを閉鎖することが出来ず乗組員は広い艦内に慣れておらず右往左往していた。呉回航の護衛はレイテ沖海戦から戦艦長門を護衛して帰還した駆逐艦3隻だったが、損傷の修理も乗組員の休養も出来ていなかった。駆逐艦側は水測能力が低いことから潜水艦の襲撃をかわすために昼間沿岸を航行して呉に至ることを具申したが、信濃艦長は夜間沖合いを高速で通過することで潜水艦の襲撃をかわすことができると主張、夜間航路を取ることになった。信濃隊は11月28日午後6時30分、外洋に出て呉に向かった。途中護衛艦は何度も潜水艦を視認しているが、信濃艦長は追尾攻撃を認めずそのまま呉に向かった。午前3時13分、信濃を追尾していた米潜水艦は信濃に魚雷6本を発射、4発がバルジの上部の比較的防護の弱い部分に命中、信濃はしばらくは20ノットの速力で航行していたが、浸水が拡大、午前8時頃には航行不能となってしまった。護衛の駆逐艦2隻が曳航を試みたが、7万トンの巨艦で浸水によって沈下している信濃は駆逐艦では曳航出来ず、午前10時57分、信濃は転覆沈没した。大和型戦艦を改造した空母信濃が魚雷4発で沈没した理由は工事未成で艦内をワイヤーなどが這っていてハッチを閉鎖できなかったこと、乗組員が艦内に不慣れで飛雷後右往左往するだけで適切な防水措置が取れなかったこと、工事が省略されて防水機能その他の部分に不備があったことなど様々あるが、要するに竣工とは名ばかりの未成艦で飛雷した時点で沈没は避けられなかったそうだ。満載排水量7万1千トンの巨艦は竣工から10日、出港して17時間でその姿を没した。信濃完成のために投入された膨大な労力も大量の資材もすべて無に帰した。沈没地点は潮岬から東南東沖北緯33度06分、東経136度46分の水深6千~7千メートルの地点と言うが、深海であることから確認は出来ていないそうだ。仮に信濃が呉に回航されて完成したとしてもすでに載せる航空機もなく動かす燃料さえない状態だったので呉で係留されて空襲で撃沈されただろう。信濃の運命は追い詰められた日本の運命だったのかもしれない、🎃🙅😅。