フィリピン決戦に敗北した日本海軍は昭和20年になって南方に散在する艦艇を日本に引き上げさせることにした。しかし当時は南方航路は米軍の空母機動部隊と潜水艦隊に完全に押さえられて日本への物資の輸送はほとんど不可能になっていた。そのため引き上げ艦艇に可能な限りガソリン、ゴム、錫、ニッケル、タングステン、水銀、亜鉛などの戦略物資や技術者などの人員を搭載して日本に輸送させることにした。輸送のために選ばれた艦艇は第4航空戦隊の戦艦伊勢、日向に軽巡大淀、そしてこの3隻を駆逐艦3隻が護衛することになった。航空戦隊とは言っても伊勢、日向は航空機を1機も搭載せずカタパルトも撤去していて航空機は大淀搭載の水上偵察機2機のみだった。また伊勢、日向、大淀は航空機用格納庫だけでなく甲板にまでガソリンの入ったドラム缶を積み上げていたので機銃弾でも当たればそれらが爆発燃焼して大被害を被る可能性があった。誰もがこの作戦が成功するとは思っていなかったそうだ。6隻は完部隊と命名されシンガポールで戦略物資、人員を搭載して昭和20年2月10日にシンガポールを出港、フィリピンマニラに向かうと見せて日本目指して北上した。一方米軍は暗号解読で完部隊の行動を察知して潜水艦隊や航空部隊に完部隊の迎撃を命令した。米軍は潜水艦26隻、航空機多数を出撃させて完部隊を撃滅しようとしたが、潜水艦の攻撃は事前に察知あるいは撃退されて完部隊に打撃を加えることが出来ず航空攻撃は悪天候に阻まれて成功しなかった。米軍潜水艦は完部隊に雷撃を繰り返したが、命中せず完部隊の米軍潜水艦に対する砲撃や爆雷攻撃も効果を挙げなかった。艦隊は2月19日には下関に到着、翌日20日に呉に入港した。完部隊が無事到着したことを知った連合艦隊司令部は狂喜乱舞して作戦の成功を喜んだと言うが、6隻の艦艇が運んできた物資は中型貨物船1隻分ほどの量だったそうだ。それでも連合艦隊司令部が狂喜乱舞したと言うのは当時の日本がどれだけ戦略物資に窮乏していたかが知れる。米軍の制圧下3500海里を6隻の艦隊が被害を受けずに無事帰還したことはガダルカナル撤退、キスカ撤退に匹敵する奇跡だとも言う。呉に帰還した戦艦伊勢、日向、軽巡大淀はそれ以後燃料が欠乏して行動出来ず7月の米軍艦載機の空襲で大破着底して戦後浮揚解体された。戦後完部隊の司令官松田少将が米軍側にこの作戦について問い合わせたところ米軍側の参謀が「あれはまんまとやられた」と返答してきたそうだ、😁🌀🎃😅。