太平洋戦争開戦前、日本海軍は太平洋を渡って進攻してくる米海軍主力艦隊を西太平洋で迎え撃って勝利するために来るべき艦隊決戦に勝利するための軍備を築き上げてきた。ところがいざ蓋を開けてみると戦闘は空母機動部隊による航空撃滅戦、物資輸送のための海上護衛戦、太平洋に散在する島嶼争奪戦へと変化していた。日本海軍はこうした戦争の様相の変化に水雷戦に特化した艦隊駆逐艦を当てて対応したが、駆逐艦の消耗が激しく艦隊編成に支障をきたすようになった。そこで対潜、対空に重点を置いた松型駆逐艦を大量建造するとともに商船護衛のための海防艦を160隻以上建造、さらに両用戦のために松型駆逐艦の船体を利用して一等輸送艦21隻、着岸して戦車や車両を直接揚陸できる二等輸送艦60数隻を戦争後半に建造した。さすがに開戦後に建造した正規空母は大和型戦艦を改装した信濃を含めて5隻だったが、戦争の様相の変化に対応するために小型の護衛艦や輸送艦を大量建造した。大量建造と言ってもその数は米軍の1/10にも満たないが、これらの艦艇は多大な損害を出しながら海上護衛戦に、あるいは揚陸戦に活躍した。戦艦や空母、巡洋艦、駆逐艦などの戦闘艦以上に多大な損害を被りながらよく働いて戦線を支えたのはこうした艦艇だった。戦後残存したこれらの艦艇は賠償艦として戦勝国に引き渡されあるいは解体されたが、一等輸送艦の一隻は短い期間だったが、捕鯨母船として運用され、海防艦の一部は海上保安庁に移管されて定点観測船として活動するなど戦後日本の復興にも貢献している。海防艦の一隻は海保から除籍された後千葉県千葉市で海洋公民館として利用されていたが、1998年に解体された。日本海軍籍の艦艇で現在残っているのは宗谷だけだそうだが、歴史的記念艦として解体せずに保存しておけば良かったのに残念である。これらの大量建造艦は決して高性能ではなかったし、戦時急造艦でいろいろ不具合もあったそうだが、日本を支えようと良く働き、その電気溶接、ブロック建造法は戦後の日本の造船産業にも大きな貢献をした。戦艦や空母のように派手さはないし、人目を引く船ではなかったが、功労艦と言ってもいいだろう、\(^_^)/🙆🆗🎃😅。

8月に思うこと

 

 

 

 

 

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