日中戦争当時、日本海軍はソ連のSB高速爆撃機を装備した中国国民党軍の飛行場空襲の対応に頭を悩ませていた。当時使用していた96艦戦では迎撃しても追いつかず、ドイツから購入したハインケル112戦闘機は役に立たず、結局海軍は自前での開発を決心して昭和14年9月に14試局地戦闘機の名称で三菱に試作を指示した。要求性能は速度が高度6千メートルで600キロ以上、上昇力が6千メートルまで5.5分以内、武装が20ミリ機銃×2、7.7ミリ機銃×2と言ったところであった。試作を指示された三菱は直ちに検討に入ったが、小型高出力のエンジンがなく使用できるのは愛知の液冷エンジンか自社の空冷星形の火星だけであった。結局実用性を第一に考えて火星を選択したが、直径が大きいという欠点があった。そのためにプロペラを延長軸で駆動して機首を絞り込むと言う手法を取って空気抵抗を減少させることを選んだ。設計チームは零戦の開発チームと同じであったために開発は遅れて昭和17年3月に初飛行が行われたが、エンジンの出力が足りないことから速度、上昇力の不足が指摘された。そのためエンジンを水メタノール噴射付きの火星火星23型に変更、プロペラもVDM式4枚羽のものに交換された。ところが今度はエンジンが黒煙を吐き出す、飛行中激しい振動に襲われるなどのトラブルが発生、エンジンの不調については水メタノール噴射装置の不調と分かり改善されたが、振動についてはエンジン架の防振ゴムを変更してプロペラの羽の肉厚を増すことで一応の解決を見たが、トラブル解決に1年を要し、実用可能と判断されたのが昭和18年12月であったが、それ以前から生産が開始され155機が生産されていた。しかし正式に採用されたのは昭和19年10月だった。試作指示から実に5年の歳月が流れていた。当初海軍では雷電の大量生産を考えていたが、振動やエンジンの不調、視界不良、離着陸が難しいなどの問題があって月産30機程度と細々と生産を続けていたが、海軍は雷電を見限って紫電改に生産の重点を移すことにした。しかし紫電改は誉エンジンの不調で性能も稼働率も低下し、B29を確実に迎撃できる戦闘機は雷電だけという状況になってしまった。そこで海軍は完成したばかりの雷電33型の生産を急がせたが、時すでに遅く30数機を生産したところで終戦となってしまった。33型の性能は高度6千メートルで時速614キロ、高度8千メートルまで9分45秒と当時の海軍機としては最高の性能を示していた。雷電の各型の中で最も多く生産されたのは21型で280機、その他視界を改善した31型、排気タービン装備型も作られたが、少数だった。雷電は最終的には優れた性能を示したが、振動問題に悩まされて開発に5年を要し、結局戦争には大きく貢献はしなかった。堀越技師の設計は詰め過ぎという面があるようでプロペラ延長軸などと言う日本の技術ではトラブルが発生しそうなものを使わずに陸軍の二式単戦のようにエンジンカウリングから後ろを絞り込むとかしていればそれでもよかったのではないだろうか。あるいは二式単戦をそのまま使ってしまうとか零戦のエンジンを金星に換えて翼面積を縮小して機体構造を強化して急降下性能を上げるとかいろいろ方法はあったと思う。ただ設計陣の問題だけでなく用兵側がこうした運動性を犠牲にして加速と上昇力にかけた戦闘機を嫌ったことや日本の技術的問題もあったのだろう。要するに安定した性能の高出力エンジンがあれば機体は何でもよかったのだから、・・。雷電は迎撃戦闘機として優れた性能を持っていたが、日本の技術の遅れに泣いた戦闘機だった。雷鳴は轟かなかった、・・(◎_◎;)。

 

                       8月に思うこと

 

 

 

 

 

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