空母瑞鶴は日本海軍の正規空母で太平洋戦争開戦直前に翔鶴型空母の2番艦として完成した。翔鶴型空母建造時は条約明けで制限がないことから飛行甲板の全長248メートル、全幅29メートル、基準排水量26000トン、満載排水量32000トン、搭載機80機以上のフルサイズ空母として建造された。大きさで言えば海上自衛隊のいずも型護衛艦よりちょっと長くて幅が狭く排水量は6000トンほど重い。これは弾薬庫、航空機用ガソリンタンク、機関部などに装甲を施していたこと、当時海軍最大の16万馬力を出した機関の重量だろう。翔鶴、瑞鶴は完成と同時に第5航空戦隊を編成、真珠湾攻撃に参加したが、航空隊の練度が低いと陸上目標の攻撃を命じられたそうだ。瑞鶴は真珠湾攻撃で搭載機を1機も失わず幸運艦の片鱗を見せている。その後ラバウル攻略、インド洋作戦に従事西太平洋からインド洋まで米英軍を駆逐した。次はポートモレスビー攻略のために珊瑚海に進出、ここで阻止に出てきた米機動部隊と史上初の空母対空母の海戦が生起した。結果は日本側が翔鶴大破、小型空母1隻喪失に対し、米軍側は大型空母1隻喪失で戦術的には日本側の勝利だが、戦略的には日本側の進攻を阻止した米軍側に分があったと言う。ミッドウェー海戦は翔鶴の修理と航空機の補充が間に合わず不参加、その後ソロモン諸島方面で米軍機動部隊と激戦を繰り広げるが、南太平洋海戦で翔鶴は再度被弾して大破するが、瑞鶴は被害を受けなかった。その後しばらく大きな海戦がなかったことから瑞鶴は戦訓によって対空火器の増設と不燃不沈化工事を行いながら訓練に励んだ。そしてマリアナに進攻してきた米海軍機動部隊を迎え撃ってマリアナ沖で迎撃するが、このころにはもう日米の戦力は質量ともに大きく開いていて空母大鳳、僚艦の翔鶴、飛鷹が撃沈され、艦載機はほとんど全滅してしまった。瑞鶴も開戦以来初めて被弾して中破した。内地に戻った瑞鶴は母艦部隊の錬成やなお一層の不燃不沈化に努めた。航空用ガソリンタンクと船体の間にコンクリートを流し込みガソリンの漏洩を防ぐとともに艦内のペンキや床に貼ったリノリウムをはがすなど不燃化を徹底した。そして昭和19年10月、レイテ沖海戦に米艦隊をおびき寄せるためのおとり機動部隊として小型空母3隻、航空戦艦2隻を率いて出撃、4空母が搭載した航空機はわずか116機だった。瑞鶴は日本海軍最後の艦載攻撃隊を発進させたが、これと言った戦果はなかった。逆に米軍艦載機が3波にわたって来襲、瑞鶴は魚雷7本、爆弾5~7発を被雷、被弾して沈没した。開戦以来、幾多の海戦に参加して生き残ってきた瑞鶴は講師て沈んだ。瑞鶴の喪失によって米国と覇を競ってきた日本海軍空母機動部隊は完全に壊滅して以後空母機動部隊の組織的運用は不可能となった。日本空母機動部隊の最後を見守っていた小沢治三郎中将は次々沈んでいく空母を見ながら「これが世界最強を競った日本海軍機動部隊の最後かと思うと情けなくもあり、また日本の先行きもこうなって行くのか」と感じたと言う。瑞鶴は建造当初は魚雷2本程度の被雷に耐えられるように建造されたと言うが、戦訓による不沈化改造で魚雷7本の被雷によって沈没するまで強化された。瑞鶴より大型で新鋭の大鳳や信濃もあったが、いずれも戦局に貢献することなく撃沈された。開戦時から日本海軍機動部隊の中核を担って戦い続けた瑞鶴は日本海軍機動部隊の終焉を看取るようにして散って行った、🎃😅。