太平洋戦争中日本海軍で最も活躍した戦艦は金剛型高速戦艦だった。しかし金剛型高速戦艦は明治末期から大正初期にかけて建造された最も古い戦艦だった。一番艦の金剛は英国ビッカース社で建造され、これを手本に他の3隻が日本で建造された。竣工当時は14インチ砲を装備した世界最強の巡洋戦艦だった。その後2回の改装を経て太平洋戦争当時は速力30ノットの高速戦艦に生まれ変わっていた。そして開戦と同時に霧島、比叡はハワイ方面に機動部隊の護衛として、金剛、榛名は東南アジア方面攻略の護衛として出撃、その後4隻揃って機動部隊を護衛してインド洋に進出、英国艦隊を駆逐した。初期作戦終了後、金剛、榛名は北方方面作戦支援に、比叡、霧島は再度機動部隊の護衛としてミッドウェー攻略に出撃、ここで空母は全滅したが、比叡、霧島は無傷で帰還した。ソロモン諸島方面でガダルカナル島の飛行場争奪戦が始まると制空権の取れない日本海軍は苦戦するが、ここで戦艦による飛行場砲撃が計画され、金剛、榛名がこれを実施、大成功を収めた。さらに比叡、霧島で第2回の砲撃が計画されるが、2回目はこれを阻止するために出撃して来た米艦隊と交戦、米艦隊を撃破するも比叡は中小口径砲弾80発以上を被弾して舵が故障、翌日米軍の航空攻撃を受けて魚雷3本を被雷、自沈した。さらに再度飛行場砲撃を目指した霧島は出撃して来た米新鋭戦艦サウスダコタ、ワシントンと交戦、サウスダコタを大破させるが、ワシントンのレーダー射撃を受けて撃沈された。残った金剛、榛名は南太平洋海戦に機動部隊の護衛として出撃、ソロモン諸島方面の戦闘が終了すると進攻してくる米軍をマリアナ諸島で迎え撃つが、鬼神も避けるほどに強大になった米海軍機動部隊に敗退、榛名は被弾してスクリュー軸1本が曲がり最高速発揮が不可能となった。さらに2隻はレイテ島沖海戦に参加、米軍空母機や米艦隊と激戦を繰り広げたが、すでに力の差が歴然となった日本海軍はここでも敗退、金剛は内地帰還途中に米潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。最後まで残った榛名は艦を維持する燃料もなく陸上から電気を引き入れて呉に係留、対空火器も大部分を陸上に揚げて来襲した米空母機と交戦するが、爆弾多数を被弾して大破着底、B29の編隊に狙われたが、2番砲塔の砲塔長の目視射撃で編隊の先頭機を見事撃墜、残りの機は進路を変えて逃げ去ったとか。着底した船体は戦後浮揚解体された。金剛型高速戦艦は開戦から終戦間近までほとんどの海戦に参加して最前線で激闘を繰り広げた。他の戦艦が温存されて戦争後半まで戦闘に参加しなかったのに比べると縦横無尽の活躍だが、それは金剛型戦艦が30ノットという高速が発揮可能で機動部隊の護衛に好都合だったこともあるが、金剛型4隻は本来艦隊決戦では主力艦というより水雷部隊と共同して米艦隊の主力に暫減を目的とする攻撃を行うことを任務としていた。そのため巡洋艦的な使われ方をしたのだろう。また古い戦艦で惜し気がなかったこともあるだろう。ガダルカナル島沖で霧島が米海軍新鋭戦艦サウスダコタ、ワシントンと砲撃戦を行ったが、16インチ砲装備の新鋭戦艦相手では勝ち目はなかった。ただ距離が7千メートルほどだったので霧島が徹甲弾を使用していたら米戦艦も無事では済まなかっただろうが、霧島には飛行場砲撃のために弱装薬で三式弾を装填していたという。三式弾は航空機に使用するクラスター弾のようなもので艦船を撃沈する威力はなかった。またこの時大和でも長門でも突入させていれば結果は変わったかもしれない。海軍にとって大和、武蔵はもったいなくて局地戦などには使えない。長門、陸奥はもったいないもあるが、速力がちょっと遅い。日向、伊勢、扶桑、山城は旧式化していて速力も遅くて艦隊の足手まとい。そうすると使える船は30ノットの高速を発揮でき、老朽艦で惜し気のない金剛型4隻だったのだろう。日本海軍の戦艦の中で最も古い金剛型4隻は太平洋からインド洋まで縦横無尽に駆け回り獅子奮迅の働きをして散って行った、😁🌀🎃😅。