米国のM4中戦車に手も足も出ずに完敗した日本戦車だが、M4中戦車を正面から撃破した日本戦車があった。一式砲戦車、正式には一式7糎半自走砲という。これは97式戦車の車体にフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲を搭載したもので本来は自走砲として作られたものだが、距離千メートルでM4戦車の正面装甲を撃ち抜ける砲だった。そのため戦車部隊での運用も考慮していた。現実的にはM4戦車と正面から撃ち合える装甲車両は一式自走砲しかなかった。ただあくまでも自走砲で砲は防楯を備えたオープントップ砲塔で全周旋回は出来なかった。100両強が製作された一式砲戦車はフィリピンやミャンマー、中国に少数が送られた。フィリピンに送られた一式砲戦車は途中輸送船が撃沈されて4両だけがフィリピンに到着した。この4両は壕を掘って車体を隠蔽して歩兵を援護して進撃してくる米軍戦車を待ち伏せて米軍の激しい攻撃に退却してくる歩兵を尻目に距離500メートルで射撃を開始、壕を移動しながら射撃を続けて米軍のM4戦車の正面装甲を撃ち抜くなど米軍のM4中戦車に痛撃を加えた。見つかれば防御能力の低い自走砲なのでM4中戦車に撃破されるが、ノモンハン以来の優秀な戦車兵が残っていたので戦闘は完璧に行われた。その後もこの4両は他の部隊と共同で連日米軍に砲撃を加えて損害を与え続けていた。昭和20年3月31にはサラクサク峠で正面に展開する米第32師団に対して15センチ榴弾砲3門、機動90式野砲2門と協力して米軍に1千発の榴弾を撃ち込み米軍を退却させている。しかしこの4両の自走砲も次々破壊されて最後の1両は6月に撃破された。これら4両が所属した戦車第2師団機動砲兵第2連隊は圧倒的優勢な米軍と半年に渡って戦闘を続けた。1300名のうち85%を失って200名弱が生還した。日本の戦車兵は「M4戦車の正面装甲を撃ち抜ける砲を備えた戦車を与えてくれれば絶対に負けない」と言ったそうだが、その言葉は嘘ではなかった。

8月に思うこと

 

 

 

 

 

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