昭和14年、陸軍は従来の戦闘機とは異なり速度、加速性能と上昇力、急降下性能の優れた戦闘機を開発することとしてキ44のコードネームで中島に開発を指示した。昭和12年に正式化された97式戦闘機は水平面での格闘能力に優れた戦闘機であったが、欧州ではすでにドイツのBf109、英国のスピットファイアなど引込脚の戦闘機が出現しており、陸軍も新型戦闘機を模索して三菱、川崎、中島に重戦と軽戦の研究試作を命じ、中島が出したのがキ43(のちの隼)とキ44(のちの鍾馗)だった。陸軍ではキ43があれば重戦は不必要との考え方もあったが、ノモンハン戦でソ連のI‐16による一撃離脱戦法を受けた戦訓から重戦の必要が認められて開発に拍車がかかった。しかし重戦設計の経験がなかった陸軍は仕様書の作成に手間取りキ43の開発を先行させることになった。昭和14年に陸軍が示した要求性能は最大速度600キロ、上昇時間5千メートルまで5分以内、行動半径は600キロとされた。また陸軍は欧米の動向を認識して燃料タンクの防弾や操縦者後方の防弾板装備にも意を用いていた。武装は翼内に13ミリ機関砲2門、機種に7.7ミリ機銃2門だった。試作機は昭和15年10月に初飛行したが、エンジンの性能不足で双度が出なかったため外板の継ぎ目の目張り、機体表面の平滑化などを徹底して時速626キロを達成、武装を施しても要求性能を達成できることが確定した。ただ従来の戦闘機より格闘性能で劣り大口径エンジンのために前方視界が悪く着陸速度も速いことから軽戦に慣れた古参搭乗員からは嫌われた。完成した試作機、増加試作機は対米戦のために実戦テストを兼ねて南方戦線に送られて開戦とともに実戦投入されて英米軍の戦闘機と対戦し、戦果を挙げたことから二式単戦として正式化されたが、航続距離が短いこと以外は問題点はなかった。その後性能向上のためにエンジンをㇵ109に換装、二式単戦Ⅱ型と呼称された。昭和18年には2千馬力級のハ45に換装したⅢ型が試作されたが、当時は四式戦闘機の開発が進んでいたことから試作のみで量産はされず二式単戦自体の生産も1944年末で終了した。生産機数は1225機で大半がⅡ型であった。主翼は2本桁構造で内側を波板で補強したことから時速850キロの急降下にも耐える強度を持っていた。実戦では時速800キロで引き起こしをしても翼に皺が寄ることはなかったそうだ。鍾馗は大口径のエンジンのために前方視界が悪いこと、着陸速度が速いことから着陸時の事故が絶えず若年パイロットは乗せられない殺人機とか暴れ馬とか言われて嫌われたようだ。日本の支店では劣ると言われた運動性についても欧米機と比較すると同等か優れており実戦では問題にならなかった。戦争が始まると南方地域や中国に派遣されたが、航続距離が短いことから会敵の機会が少なく目立った活躍は出来なかったが、1944年にB29による本土空襲が始まると本土に呼び戻されて本土防空の任に当たった。しかし高高度性能の劣る二式単戦では効果的な迎撃は難しかったが、防弾板や機関砲を下ろして体当たりをしたり40ミリロケット砲を装備して最後までB29の迎撃に奮戦した。二式単戦は操縦が難しいことやエンジンの整備に手間がかかることなどで四式戦が登場すると性能向上のための改修も行われなくなってしまった。特に速度の向上に効果があるとされた排気推力の利用のための単排気管への改造も行われていない。戦後の米軍の評価では上昇力、急降下性能ともに傑出しており迎撃機として最適の機体だったと評価している。日本は陸海軍で同じような機体をそれぞれ制作していたが、日本のような人的物的資源の乏しい国では長距離進攻戦闘機は海軍の零戦を使う、迎撃機には陸軍の鍾馗を使うと言ったようにそれぞれうまく補い合って航空機の試作を進めるべきだったように思う。二式単戦「鍾馗」と言う機体はなかなか優れた機体で緒戦のころは急降下の余勢を駆って時速700キロ以上で旋回する二式単戦に米軍機はなすすべがなかったそうだ。視界が悪いとか着陸速度が速くて危険だとか言うが、視界はともかく離着陸は飛行場を適切に作ればいいことで機体の責任とは言えない。またこの機体は若年搭乗員でも容易に乗りこなせて戦果も挙げられたと言う。名前の由来のように悪鬼をバッタバッタと退治してくれる機体であってほしかった。