日本陸軍は太平洋戦争開戦直後に中島航空機にキ84の開発コードで最高速度650キロ、20ミリ機関砲2門、13ミリ機関砲2門、制空、迎撃、地上支援と何でもできる今で言うマルチロールファイターの開発を指示した。エンジンは2千馬力級と言うが、そのエンジンが完成していなかったことから試作は遅れて2年後の昭和18年4月に試作機が完成、その後の量産をスムーズに行うために試作機100機を作り、問題点を改修して行くと言う前代未聞の方法が取られた。丁寧に仕上げたハ45エンジンを装備した試作機は時速638キロを記録するなど高性能機の片鱗を見せつけた。昭和19年4月に四式戦闘機「疾風」として制式化されたが、その頃になると軍需省に尻を叩かれて普通なら検査に合格しない部品が出回るなど数合わせの粗製乱造がひどくまた質が劣る燃料やオイルのせいで所期の性能が出ない機体や飛べない機体が工場に大量に溜まり続けた。それでも中国に送られた機体は米軍のP51やP38、P47など新鋭戦闘機と互角の戦いをするなど高性能機の片鱗を見せつけた。しかしエンジンの不調や前線での整備不良などもあり高速だが運動性に難がある疾風より一式戦隼を好む熟練パイロットも少なくなかったそうだ。フィリピン戦線には大量、と言っても80機だが、の疾風が送り込まれ一時的に米軍から制空権を奪還しそうなまでに奮戦したが、陸海軍ともに補給が続かず力尽きた。沖縄戦では特攻機として使用されるなど奮戦したが、エンジンの不調が尾を引いて稼働率が低くエンジンを不調のハ45から馬力は劣るが、安定しているハ112に換装した機体なども試作された。四式戦闘機「疾風」は3500機と零戦、隼に次ぐ機数が生産されたが、エンジンの不調を克服出来ずその高性能を発揮することが出来なかった。海軍が期待した同じエンジンを装備した紫電改と比較すると疾風の方が翼面積が小さくその分高速だったが、運動性は紫電改が上だったそうだ。疾風も紫電改のように集中使用して米軍と戦ったらそれなりの戦果を残したかもしれないと言う。戦後米軍のテストでは時速687キロを記録、米軍をして「日本陸海軍機の中で最強の戦闘機」と言わしめたことはこの機体が優秀な戦闘機であったことを物語っている。日本が2千馬力級の安定したエンジンと過給機を作ることが出来れば制空やB29の迎撃に活躍しただろう。しかし戦局を転換できるなどと言うのは夢のまた夢だった。大東亜決戦機として期待された四式戦闘機「疾風」は当時の日本の技術力が手枷足枷となって消えて行った、😁🌀😨🎃😅。