日露戦争に勝利した後、勝利したと言っても講和条約を結んだときの日本は戦費も物資も底をついていてこれ以上戦争を続けられない状態で英米が講和を斡旋してかろうじて首の皮がつながったような状態だったが、日本海軍は仮想敵を米国に定めた。なぜ仮想敵を米国に定めたかと言えば軍隊と言うものは仮想敵がないと予算がつかないので常に緊張感を煽っておかないといけないからだ。もっとも米国もアジア地域への進出を企てていたので将来当然利害が衝突する可能性はあった。そして海軍は莫大な予算を獲得して艦隊の増強を図った。戦艦8隻、巡洋戦艦4隻の84艦隊、その次は戦艦8隻、巡洋戦艦6隻の86艦隊、そして最後は戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の88艦隊を計画、この88艦隊を完成させるには国家予算の大部分を注ぎ込まないといけなかったのでもうこの時点で海軍の拡大は国力の限界を超えていた。そこに出てきたのが日米英仏伊の5か国による主力艦保有を制限するワシントン条約でこの条約によって英米5、日本3、仏伊1.75の保有比率が決定された。戦艦長門、陸奥は88艦隊の1、2番艦で英米は陸奥を未成艦として廃棄を主張したが、日本が強硬に完成を主張、陸奥の保有を認めさせる代わりに英国に2隻、米国に3隻の16インチ砲装備の戦艦建造を認めることとなった。その後日本は陸軍が主体となって中国への侵攻を行い日中戦争が勃発、また満州国を建国させて中国北部の権益を握ろうとした。これに反発する英米は日本と激しく対立、日本は独伊に接近、1936年から1939年当時、平沼内閣で三国同盟締結について総理、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、大蔵大臣によって60回以上の協議が行われたが、海軍の反対によって結論が出ないうちにドイツがソ連と不可侵条約を締結したことで同盟は棚上げとなった。この時の海軍大臣である米内光正は大蔵大臣に「三国同盟を締結すると英米と事を構えることになる可能性が高いが、その際主に英米と戦うことになる海軍の勝算はいかがか」と聞かれて米内光正は「勝てません。日本の海軍は英米を向こうに回して戦うようには建造されていません」と言い切った。戦前の海軍大臣で英米と戦ったら勝てないと明言したのは米内光正だけであった。一旦棚上げになった三国同盟だが、1940年にフランスがドイツに敗北してドイツが有利になると三国同盟の締結論が再び盛り上がってきた。陸軍では「バスに乗り遅れるな」を合言葉に同盟締結を主張、本国が敗北し亡命政府の統治下となったオランダ領インドネシアやイギリス領マレー半島を確保しようとする「南進論」の動きが高まった。陸軍首脳は親英米派の米内内閣を倒閣して近衛文麿を首班とする第2次近衛内閣を成立させ同盟推進を強く主張、ドイツはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するためとして同盟締結を提案、日本側も対米牽制のために同意した。海軍は条約が想定しているドイツ・アメリカ戦争について日本が自動的に参戦することを避けようとしていたが、条約本文ではなく交換公文において自動参戦条項は事実上空文化したことで及川海軍大臣も近衛・松岡・木戸らの説得により条約締結賛成にまわった。及川の賛成理由は「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けることはもはや国内の情勢が許さないので賛成する」という消極的なもので及川とともに松岡らの説得を受けた海軍次官の豊田貞次郎は英独戦への参加義務や米独戦への自動参戦義務もないことで「平沼内閣時に海軍が反対した理由はことごとく解消したので反対する理由がなくなった」と申し立てている。要するに海軍は国内で内乱などが起こった場合に責任を取るのを避けたかった。9月15日に海軍首脳会議が開かれたが、阿部勝雄軍務局長が経過を報告し終わると伏見宮軍令部総長が「ここまできたら仕方ないね」と発言、大角岑生軍事参議官が賛成を表明、それまで同盟に反対していた山本五十六連合艦隊司令長官は「条約が成立すれば米国と衝突するかも知れない。日本は戦略物資の8割を英米圏に依存しているが、同盟を締結すればその物資を失うことになる。その際の物動計画はどう切り替えたのか」と及川海軍大臣に食い下がるが、「いろいろ意見もあるだろうが、この際やむを得ない」で首脳会議は終了してしまった。同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は同盟締結について危惧を表明したが、近衛首相はドイツを信用すると奉答、「海軍大学の図上演習ではいつも対米戦争は負けると聞いた」と天皇は対米戦敗北の懸念を伝えたが、近衛は及ばずながら誠心奉公すると回答して押し切ってしまった。そして海軍は勝てないと分かり切っていた対米戦へと突き進んで行く。この時米内光正のように「米国と戦ったら負ける」と言い切れる人物がいれば状況は変わったかもしないが、海軍は「戦えない」と言うと陸軍に予算を分捕られることや戦争を回避したことによって生じるかもしれない国内の混乱の責任を取らされることを嫌って対米戦へと突き進んで行く。陸軍は全身全霊「戦争はやってみなければ分からない」と対米戦に突き進んで行ったが、海軍は組織の保全と予算の確保と言う自己保身のために対米戦へと進んで行った。「バカな陸軍、ずるい海軍」と言われるのはこうした責任逃れと自己保全の考え方からだろう。確かに莫大な予算を獲得して大海軍を建造しておいていざとなったら「英米と戦えば負けるからやらない」と言うのは軍人としてよほど言い難かっただろうが、武力を前面に押し立てて国政に干渉する陸軍を押さえることが出来るのは海軍だけだったのだから蛮勇を振るって戦争の防止に努めてもよかったように思う。ただもしも米英側についていたら第二次世界大戦の惨禍はある程度避けることが出来たかもしれないが、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争などアジアの戦乱は間違いなく日本が中心になって戦うことになっただろう。そんなことを考えると太平洋戦争で負けてよかったのかもしれないが、昭和14年(1939年)8月23日にドイツが突然ソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したことを受けて総辞職した平沼内閣の首班の平沼首相のように「(国際関係は)複雑怪奇」ではある、・・(◎_◎;)。