日本海軍で太平洋戦争当時よく戦った艦艇と言うと戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦などを挙げるが、人知れず米軍と激戦を繰り広げていた艦種がある。それは海防艦である。昭和の海防艦とは船団護衛等のシーレーン防衛を主任務とする排水量700トンから900トン、武装は12センチ高角砲2~3門、25ミリ3連装機銃4基、爆雷120個などを主武装とする速力19ノットから16ノットの小型戦闘艦で戦争前半の護衛艦艇(旧式駆逐艦、哨戒艇、機雷敷設艦、急設網艦、水雷艇、掃海艇、駆潜艇、特設艦艇等)にかわる護衛戦力の主力となった艦艇である。日本海軍は艦隊決戦を主戦略として米国に対抗すべく営々と努力を重ねたが、シーレーン護衛などには無関心で旧式駆逐艦、駆潜艇、敷設艦、その他の小型艦艇を護衛に当てていたが、制海権さえ取っておけばシーレーンは安全と言う程度の考え方であった。ところが戦争が始まると最初のころは魚雷の信管の不安定など活動が不徹底だった米国潜水艦も徐々に活発な活動を行うようになり日本の輸送船の被害が増加して行った。そのため日本海軍は北方海域での漁船の護衛監視用の海防艦占守型の設計を若干簡略化して対潜装備を強化した択捉型や御蔵型の建造を開始、さらに戦局悪化による護衛艦不足に対応するために大量生産を考慮して設計を大幅に簡略化した鵜来型・日振型などを大量に建造、当時の日本において海防艦建造は海軍艦政本部、海上護衛総司令部の軍当局に加えて民間の三菱重工業、日本鋼管、日立造船などの造船メーカーを巻き込んだ一大国家プロジェクトとなった。これらの艦艇が完成したころには戦局はさらに悪化して輸送船の被害が拡大していたが、当時の日本海軍は航空母艦、丁型駆逐艦(松型駆逐艦)、輸送艦(第一号型、第百一号型)、潜水艦の量産、商船建造に傾注していて護衛艦艇の建造は後回しにされがちだった。 そのために小規模な造船所で量産できるようこれまでの海防艦をさらに小型化、簡略化した丙、丁型海防艦を設計して100隻を超える艦艇が建造された。丙、丁型海防艦は戦時日本海軍が建造した艦種の中で最も数が多い艦艇となった。1944年(昭和19年)度82隻、1945年(昭和20年)43隻、計125隻が完成したが、あまりにも種類と仕様が雑多で統一性がなく艦ごとに艤装や計器の仕様が異なり用兵側は編隊航行にも苦労することになったが、護衛艦艇の中では主力の位置にあった。こうして就役した海防艦のほとんどは戦争中期から末期にかけて南方から物資を輸送する日本の船団を攻撃する連合国軍潜水艦・航空機に対抗して微弱な兵装装備で輸送船を護衛して苛酷な戦いを繰り広げた。 新型海防艦の最大の欠点は丙型16ノット、丁型17ノットと言う低速で水上航行中の潜水艦や護衛対象の優秀船にも劣った。この程度の速力では水上速力19ノットの米軍潜水艦を追尾することが出来ず米軍潜水艦が浮上逃走すると海防艦では手の施しようがないので船団に1隻でも駆逐艦をつけることが要求されたと言う。しかし護衛する船団の速力が平均で8~10ノット程度だったので戦局の逼迫から性能不充分ながらそれを承知で運用せざるを得なかった。その結果、終戦までに完成した海防艦167隻、占守型4隻、中華民国からの戦利艦海防艦2隻を含めれば173隻のうち71隻が失われ、海防艦乗組員の戦死者は1万人以上と言われる。この奮闘にもかかわらず圧倒的な米軍の戦力の前に戦争末期には日本の海上輸送路はほぼ遮断されて壊滅することとなる。それでも海防艦など護衛艦艇の運用を統括する海上護衛総隊司令部も設置されて連合艦隊がマリアナ沖海戦及びレイテ沖海戦で事実上壊滅した後は海防艦など護衛艦艇は海軍唯一の残存戦力として第一線に押し出され終戦まで作戦行動を継続した。海防艦の運用を担ったのは東京及び神戸の高等商船学校出身の海軍予備将校で一般商船の高級船員がそのまま充員召集されて海防艦長、航海長、機関長などの任務に就いた。戦時急造の粗末な構造で兵器も充実していたと言えず各方面から集められた乗組員の訓練も不十分だったが、戦争遂行に不可欠なシーレーン防衛のために決死の戦いを強いられた各海防艦、商船隊の決死的な護衛戦闘は追い詰められた日本を支えるために貢献したと評価に値するだろう。また海防艦の大量建造は生産性の向上を徹底的に追求する中でブロック工法や電気溶接を本格的に採用して戦後の造船技術の潮流を作った。戦後生き残った艦の多くは復員業務に従事した後、賠償艦として連合軍に引き渡された。日振型と鵜来型のうち志賀など計5隻がおじか型巡視船として海上保安庁で再就役して昭和30年代後半まで活躍した。