史上最大の戦艦「大和」は、その巨体もさることながら、主砲に採用された46cm砲も、艦砲としては世界最大のスケールを誇りました。しかし、残した戦果や実戦歴から、無用の長物と言われたり、航空機による戦闘が主流になりつつある時代に逆行していたことから"時代錯誤の大艦巨砲主義の産物"とともいわれています。
前回の〈「無用の長物」と批判された戦艦「大和」の建造が、じつは「合理的」だったといえる「意外なワケ」〉では、大和型大型戦艦の建造計画が生まれた背景を見ながら、その計画が決して時代錯誤ではなかったという事実が明らかになりました。今回は、大和の兵装を中心とした装備や技術を見ながら、軍艦としての実力を見てみたいと思います。解説は、『日本史サイエンス』『日本史サイエンス 2』の著者で、船舶設計技師の播田 安弘さんです。

 

大和の“象徴” 3連装砲塔に搭載された世界最大口径砲
史上最大・最強の戦艦である大和。その主装備である主砲は、世界最大口径の46cm砲を3門まとめた(3連装)砲塔として、前甲板に2基、後甲板に1基、計9門を搭載されています。砲弾の威力は砲弾の容積で決まりますが、それは弾径(砲弾の直径)の3乗に比例します。41cm砲と46cm砲では、弾径は46/41で1.12ですが、砲弾の容積は46/41の3乗で1.41倍となります。かつ飛距離も大きく、相手の砲弾が届かないところから撃てるので、艦隊決戦では非常に有利になるのです。砲塔の下には弾薬庫や給弾システムがあり、それらが分厚い装甲で覆われていたため、3連装砲塔の重量は1基あたり約2500tにもなりました。日本海軍の駆逐艦1隻の排水量がほぼ2000tですから、合計では駆逐艦を3隻載せているより重いという、とてつもない重量です。46cm主砲から仰角45度で発射された砲弾は、初速780m/秒(マッハ約2.3)で高度1万1900mまで上がり、90秒後に4万1000m先に着弾します。主砲は40秒ごとに1発、発射することができます。これが9門なので、3分間では合計で36発の46cm砲を発射できます。その破壊力のすさまじさを打ち抜ける鋼鉄の板の厚さで表すと、射程距離3万mでは垂直鋼板を41.6cm、水平鋼板を23cm打ち抜き、射程距離2万mでは垂直鋼板を56.6cm、水平鋼板を26.8cm打ち抜くことができました。この主砲の攻撃に耐えられる装甲をもつ戦艦は、世界のどこにもありませんでした。発射時の爆風はすさまじく、乗員が吹き飛ばされると死傷事故につながるため、発射のタイミングは確実に周知される必要がありました。なお、日本海軍の主砲弾には、米英の砲弾と異なり、敵艦を破壊するための「徹甲弾」と、対航空機用の「三式弾」の2種類がありましたので、順にご紹介します。

極秘扱い級の破壊力。果たして実戦の機会は……!?
敵艦に命中させて、分厚い装甲を貫いて破壊するための砲弾が徹甲弾です。太平洋戦争で日本が使用したのは、徹甲弾に水中弾としての性能をもたせた九一式あるいは一式徹甲弾と呼ばれるものでした。水中弾は日本が独自に工夫した特殊砲弾で、敵艦に命中せず艦の手前に落下した砲弾が、そのまま水中を直進して魚雷となって艦に命中し、遅延信管によって艦内に達してから爆発するものでした。水中弾の発想は、ワシントン軍縮条約によって廃艦となった大型戦艦土佐を使っての実艦防御実験から得られました。その威力はすさまじく、水中弾は極秘扱いとされました。

では、水中弾の優秀性が実戦ではどう発揮されたかといえば、太平洋戦争では艦隊決戦はほんのわずかしか実現せず、ほとんどが対空戦であったため、残念ながら敵艦に発射する機会はほとんどありませんでした。大砲はミサイルではないので、進む方向を誘導することはできません。そこで、敵艦に徹甲弾を発射する場合は命中率を上げるため、9門の主砲を同時に発射して散布界をつくり、敵艦がこの散布界の中に入るように誘導しながら撃っていきます。海戦で敵艦を見つけるためには、地球は丸いので、艦長が指揮をとる艦橋や、距離を測定する測距儀の位置は高いほうが有利です。そのため、当時の世界の戦艦は、艦橋や測距儀の位置が非常に高くなっています。大和の艦橋の高さは水面から37mとビルでいえば10階くらいで、水平線上の約23km先まで見えました。敵艦が見えると、位置、速度、方向を測距儀で計測、射撃指揮装置で敵艦の未来位置を計算し、風や潮流、地球の自転などを考慮し、1つの引き金を引いて9門同時に発射します。すると着弾時には9本の高い水柱が立つので、これを測距儀で確認し、着弾の散布界が敵艦を包むようにデータを修正して、また発射するわけです。

戦闘機を編隊ごと一網打尽にする「三式弾」
三式弾は航空機に対して用いる砲弾です。高速で移動する航空機を1機だけ狙うのは至難の業なので、編隊を組んでいる敵機の進行方向の未来位置に砲弾を撃ち、内部に詰めた大量の散弾を時限信管でタイミングを合わせて爆発させて、編隊を一網打尽に撃墜するものです。当初は大きな効果があり、ブルネイでは編隊で来襲した米軍機に各艦の主砲が三式弾を発射して編隊中で炸裂させ、かなりの数を撃墜したので米軍機はあわてふためいて 遁走しました。米軍もこれには恐れをなして、その後は主砲の射程に入る前から編隊を解くようになりました。それでも日本軍は、航空機1機に対しても三式主砲弾を撃っていました。対航空機用の三式弾は、散布界が大きい散弾だったので一定の命中精度はありました。しかし日本軍には当初、レーダーがなく、敵機の観測にはレンズ式の高射指揮装置を使用していたため、高速の航空機の未来位置を瞬時に算出し、時限信管をセットするのはかなりの困難がありました。実際には、ほとんど的が絞れていない状態で撃っていたと思われます。また、単純な未来位置は計算できても、急降下爆撃機や雷撃機は、急降下時に大きな旋回加速度を加えながら高空からダイブをかけて急降下し、魚雷発射や投弾をします。急降下時に加速度が加わると、未来位置の計算はかなり複雑になります。このため、戦争中期以降の艦船には、対空用に大きな仰角でも撃てる高角砲が増設されました。

レーダー、電子信管で迎え撃つ米国
これに対して米軍は、レーダーによって航空機を捕捉し、単純未来位置を計算し、さらに砲弾には時限信管ではなく、新しく開発した電子信管を取りつけました。これは砲弾から電波を出して目標からの反応をキャッチし、敵機が近くを通過するだけで命中しなくても爆発するというおそるべきシステムです。発射速度が速く威力も大きい12.7cm高角砲弾に電子信管がつけられ、日本の航空部隊は多数が撃墜されました。戦争後期になって、大和もようやくレーダーを装備しましたが、射撃指揮装置との連動はできていませんでした。日本の高角砲は、とくに10cm長砲身高角砲は初速が速く、性能的には米国のものより優れていましたが、やはり射撃指揮装置とレーダーの連動はできていませんでした。
このように大和は、レーダーの装備が遅れるなどの問題点があったものの、兵装に関する限り、導入された技術は非常にレベルの高いものでした。しかし、そんな大和にも構造的な弱点がありました。そして、その弱点が露呈するような、航空機戦力の伸長という戦術の変換が訪れます。実は、航空機戦力の導入は、大和を産んだ日本海軍自らが進めた作戦でもあったのです。続いて〈皮肉にも戦艦「大和」を「無用の長物」に変えてしまった、山本五十六の「革新的すぎる新戦略」〉では、その点をじっくり見ていきたいと思います。(播田 安弘)


史上最大の戦艦「大和」に搭載された「46センチ主砲」の「ヤバすぎる威力」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

戦艦大和と言う船は9門の46センチ主砲を搭載するために作られた船である。7万トンの船体も3千人の乗員も15万馬力の機関も5千トンの燃料もすべては46センチ主砲を敵に向かって撃つためである。その主砲の最大射程は42キロ、弾頭重量は1.4トン、実用上は3万メートルほどだろう。搭載する主砲弾は900発でその重量は1,260トン、これが大和の攻撃兵力のすべてである。航空機は4,5トンほどの機体に乗員が1名か2名で500キロから1トンの爆弾を積んで300キロとか400キロという距離を1時間ほどで飛んでくる。100機なら100トンの爆弾を投下できる。戦艦に比べると非常に速く手軽で効率がいい。手軽に速く大量の弾薬を戦場に投射できる。それが戦艦が飛行機に取って代わられた最大の理由である。でも無用の長物になったわけではない。大火力と強靭な防御力を備えた戦艦にはそれなりに使い道があった。ただ日本海軍は使うべき時に損失を恐れて温存してしまった。太平洋戦争後半には米軍の航空兵力は圧倒的になってその前では何ものも無事にはいられないほどになってしまった。戦後になると維持するのに莫大な金がかかる戦艦はコスパが悪いとすべて廃艦にされてしまった。弾薬を速く遠くに運ぶことが出来るジェット機やロケット、ミサイルなどが出てきて戦艦の命脈は完全に絶たれてしまった。それ以前に命脈は断たれていたのかもしれないが、戦争が続いている限り戦艦は貴重な戦力だった。今は5インチ砲弾でも100キロを飛ぶものもある。それでも戦艦が復活することはないだろう、・・(◎_◎;)。

 

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