空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火(ごうか)で朱に染めた死闘を戦った。第10回は、「世界のビッグ・セブン」のうちの1隻に数えられた長門(ながと)型戦艦の2番艦で、軍縮条約に関連してその保有を強行したものの、謎の爆発事故を起こして轟沈した「陸奥(むつ)」のエピソードである。
1番艦「長門」に遅れること約10か月の1917年8月28日に起工した2番艦「陸奥」。
その建造が終盤にさしかかっていた1921年、折からのワシントン海軍軍縮条約で明示された「未完成の艦は廃艦として処分」という条項に抵触すると見なされた。そのためアメリカとイギリスは日本に対して同艦の処分を求めた。しかし日本海軍はすでに「陸奥」は完成していると主張。これを疑うアメリカとイギリスは実地調査を試みたが、日本側の欺瞞(ぎまん)や歓迎接待を装った妨害などが奏功し、完成か未完成かの確証を得ることはかなわなかった。
かくして、日本側は41cm(ほぼ16インチ)砲搭載の「長門」に次ぐ2隻目の戦艦を手にすることができたが、これに対応する保有比率として、アメリカはコロラド級3隻の建造継続を、イギリスはネルソン級2隻の16インチ砲搭載戦艦の新造をそれぞれ認められた。そのため、「陸奥」の保有に固執したことが、かえって仮想敵国2か国の戦艦戦力を増強する結果を招いてしまったと見る向きもある。かような次第で、未完成ながら1921年10月24日に強引に竣工させられた「陸奥」は、当然ながら各部が未完成だったので、その後も工事が継続された。
そして完成後大小の改装を何度か施された後に太平洋戦争を迎えたが、一時は連合艦隊の旗艦も務めている。だが日本海軍は虎の子の戦艦群を温存する傾向にあり出撃こそしても戦闘に参加する機会がなかった。かような状況下の1943年6月8日、悲運が「陸奥」を襲った。山口県岩国市柱島沖に停泊中だった同艦が突如として爆沈してしまったのだ。
爆発は3~4番砲塔あたりで昼食の直後に生じ、そこから船体が前後に真っ二つに切断されてしまった。そして前部は右に転覆して沈没。海面に残された後部も17時頃に沈んだ。平穏な柱島泊地(はしらじまはくち)に突如として轟いた大爆発音。事態を目撃した戦艦「扶桑(ふそう)」は、海軍上層部に向けて、陸奥の爆沈を伝える至急電を発信する。一方、これが事故なのか敵の攻撃なのかが判然としないため、在泊中の各艦艇は「姿を見せない敵」である潜水艦への警戒を実施した。救助活動は全力で行われたが、乗組員1474名のうち、艦長の三好輝彦(みよしてるひこ)大佐を含む1121名が事故死してしまった。
かくして日本海軍は戦わずして保有する戦艦12隻のうちの1隻を失った。その原因は爆発が生じた場所が弾薬庫と想定されるため搭載した弾薬類の自然発火説や乗組員による放火説が唱えられたものの真相は判明せず謎の爆沈とされている。このような事情もあり、「陸奥」は日本海軍の不運な艦のひとつに数えられることも多い。(白石 光)
謎の爆沈をとげた不運艦:長門型2番艦「陸奥」(歴史人) - Yahoo!ニュース
戦艦長門、陸奥は戦前日本海軍の最強戦艦として広く国民に親しまれてきた。陸奥はワシントン軍縮条約締結時に未完成艦として英米から廃棄を迫られたが、日本側が完成を主張して譲らず、結局、陸奥の保有を認める代わりに米国にメリーランド級戦艦3隻、英国にはネルソン級戦艦2隻の建造を認めることになった。その後、陸奥は長門と連合艦隊旗艦を交互に勤めながら世界7大戦艦として国民の輿望を担ってきたが、太平洋戦争開戦後は海軍の主力艦温存策や速力不足、燃料不足などで前線に出ることなく呉で待機していたが、昭和18年6月に爆沈してしまった。
陸奥の爆沈事故直後に査問委員会(委員長塩沢幸一海軍大将)が編成され事故原因の調査が行われた。対空用砲弾である三式弾の自然発火は原因調査前に最も疑われた事故原因の一つだったが、扶桑艦長鶴岡信道大佐以下陸奥爆沈目撃者は爆発直後に発生した爆発煙をニトログリセリンと綿火薬が主成分の主砲弾用九三式一号装薬によるものだったと供述し、原因調査の際に行われた目撃者に対する火薬煙の比較確認実験でも同様の証言が残されている。査問委員会が実施したこの実験は約300万円を計上して呉工廠亀ヶ首砲熕実験場内に陸奥の第三砲塔弾薬庫と全く同じ構造の模型を建造し、陸奥生存者立ち会いのもとで各種の実験を行うという本格的なものだった。この実験でも三式弾の劣化等による自然発火は発生しないことが確認された。
以上のような検討の結果、火薬の自然発火とは考えにくくなった。直前に陸奥で窃盗事件が頻発しておりその容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから人為的な爆発である可能性が高いとされた。1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになった。この時窃盗の容疑を掛けられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑が同時に発見されている。だが火薬発火説・人為爆発説とも確実な証拠を得られず真相は明確になっていない。陸奥爆沈の速報を聞いた高松宮宣仁親王(海軍大佐)は以下の所見をのべている。
「一八〇〇御所(夕食)。一二一五「陸奥」爆発沈没(桂島)。完全ナル無駄ナリ、而モ人命ヲ失フコト極メテ多シ。若シ一人ノ不心得者ノ為ストコロトセバ、海軍一般ノ教育並自覚ノ上ニ大ナル反省ト申訳ナキ罪ヲ覚悟スベキナリ。」
陸奥爆沈の異説として爆雷誤爆説がある。陸奥爆沈の約1年半前の1941年(昭和16年)12月30日、対潜水艦哨戒出撃準備中の駆逐艦潮は起爆点を水深25メートルにセットしたままの爆雷1個を陸奥爆沈地点に落としたが、その際は爆発せず引き上げられもせず放置された。この付近は水深25メートル前後で陸奥移動時のスクリューの回転により何らかの波動が発生して爆雷が爆発したのが陸奥沈没の原因であると結論づけている。人為説に対して戦艦の弾薬庫管理は厳重であること、鍵は当直将校が首にかけていること、弾薬庫には不寝番衛兵がいることなどを指摘し、仮に陸奥艦長が敵国のスパイであったとしても火薬庫に侵入・放火することは不可能だとして否定的である。 長門副砲手として陸奥爆沈を目撃した田代軍寿郎(海軍一等兵曹)も弾火薬庫常備鍵を持った陸奥副直将校が鍵箱ごと遺体で回収されたこと、予備鍵は艦長室にあることを理由に挙げ、弾薬庫不審者侵入説を強く否定している。
しかし警備が厳重な弾火薬庫扉を経由せず昼間は無施錠となっていた砲塔から換装室を経由し火薬庫へ侵入するルートがある事を指摘する声もある。空母3隻の艦長を勤めた野元為輝元海軍少将も「そんなのすぐ鍵やってる。砲術が悪い」と海軍反省会で証言している。1952年(昭和27年)4月の海底の再調査では東緯132.24度、北緯33.58度の海底に陸奥の前半部分は右舷を下に横倒しで沈没しているとされた。吹き飛んだ三番主砲は船体から離れた場所に横倒しになっており大半が泥に埋まっていた。切断された尾部は船体から50メートル離れた場所で上下逆の裏返しに近い状態で沈んでいた。陸奥の沈没場所は浅い瀬戸内海であるが、潮流が速く視界も悪いため潜水するのは危険な場所である。海軍は「可能であれば引き揚げて3ヶ月の工期で再戦力化したい」という希望を持っていたが、調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断され浮揚計画は放棄された。
終戦後の浮揚作業は占領下の監視のために行われなかったが、1948年(昭和23年)に西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始するが、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こり作業は中断した。1970年(昭和45年)大蔵省は深田サルベージ株式会社(現:深田サルベージ建設株式会社)が申請していた艦体の払い下げを2450万円(評価額から引き揚げ費用相当額を差し引いた額)で認め、同社主導によるサルベージが再開された。同年7月22日、1500トンクレーンによって艦尾部分(1400トン)の一括引き揚げを試みたが、85 mm ワイヤ8本が切断するなどして失敗した。
この失敗を踏まえて艦尾部分を前半部分と後半部分に海底で切断して1971年3月15日に100 mm ワイヤー2本と85 mm ワイヤー4本を使用して艦尾の後部部分を引きあげた。引き上げた艦尾の後部部分は切断面を下にして広場に据え置かれた。同様に第四砲塔が引き揚げられ内部から数点の遺骨が回収された。その他の部分は海中で細かく分割され引き上げられた。陸奥の沈没から20余年が経過して船体は海藻の森ないし漁礁のようになっていて滑りやすく透明度も1メートル程度しかなく作業は難航した。艦体の約75%が浮揚されたところで引き揚げ作業は終了した。現在も艦橋部と艦首部等を除く艦の前部分などが海底に残っているそうだ。
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