太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第4回は、アメリカのB-17の影響などもあり、より高く、より速く、より多くの爆弾を積んで、より長距離を飛べる陸上攻撃機を求めた日本海軍航空隊が開発に着手した、4発の遠距離大型陸上攻撃機「連山(れんざん)」である。日本海軍の陸上攻撃機は、太平洋戦争勃発当時、双発の一式陸攻が最新であった。緒戦の時点では、同機が内包する被弾に弱いという弱点は露呈していなかったが、海軍航空隊は、より航続距離が長くより兵装搭載量が大きい陸攻を求めた。
開戦直後の南方戦線で、日本はアメリカのボーイングB-17フライングフォートレス4発重爆撃機を鹵獲(ろかく)しており、それも参考として調査されている。その結果、海軍の1942年の技術会議において、遠距離大型陸上攻撃機の性能がまとめられた。それは航続距離約11000km、最高速度約660km/h、兵装搭載量約4tというもので、特に兵装搭載量は、当時開発が進められていた1.5tや2tの大型爆弾や、魚雷2本の搭載を考慮した結果である。加えて、優良な速度性能のみならず高高度飛行も可能とするため、B-17に倣って当時の日本ではまだ実用化されていなかったターボチャージャー(排気タービン過給器)を装備。防御火力としてやはりB-17に倣(なら)い、動力旋回銃塔を備え、一式陸攻では無視されていた防弾も厳重に行うものとされた。そして、この性能を満たすには4発機が最適であろうと考えられた。
同年12月、中島飛行機に対して、海軍は「実用機試製計画番号N-40」を通して遠距離大型陸上攻撃機の開発を打診。これを受けた中島飛行機は、同計画に基づいて検討を進め、1943年9月に海軍からの正式な発注を受けた。そこで松村健一(まつむらけんいち)技師を責任者として、後に「連山」と命名される18試陸上攻撃機の設計と開発に本格的に着手した。そして、わずか1年後の1944年10月23日、試作1号機が初飛行に成功した。事前の打診という準備段階があったとしても、これはけっこう短期間でのことで、戦時下に4発遠距離大型陸上攻撃機の実用化が急がれていたのも影響したのかもしれない。
だが、軽度の損傷やターボチャージャーの未完成により、試作1号機と2号機は海軍でテストされたものの、それはフルテストではなく部分テストだった。そして終戦約2か月前の1945年6月にその開発は中止された。「連山」は計4機が試作され、3号機と4号機は海軍に引き渡されずに終戦を迎えたが、うち3機がアメリカ軍の空襲などで破壊され、引き渡されなかったうちの生き残った1機が、戦後アメリカに運ばれてテストに供された。しかし機体の状態が悪く、テストは1回しか実施されなかった。その後、同機は朝鮮戦争の際に処分されている。
敗色濃い戦局にあって、もしも一定数の「連山」が部隊配備されていれば、片道覚悟の沖縄空襲なども行われたかもしれない。だがいかんせん、部隊配備以前の問題として、当時の日本の技術では、ターボチャージャーの量産の目途が立っていなかった。関係者にとってはさぞ無念であったことだろう。なお、「連山」の連合国軍識別コードネームはRita(リタ)であった。(白石 光)
長距離爆撃の夢の実現を託した大型陸上攻撃機【連山】(歴史人) - Yahoo!ニュース
帝国海軍は13試陸攻として4発大型爆撃機を試作した。この機体は米国のDC-4、傑作機として名高いDC4(C54)とは全く別の機体、という旅客機を基に開発したが、この機体は大きすぎて技術的にも当時の旅客機にはそぐわないという失敗作で、米国は開発を中止する予定だったが、それを買いたいと申し出た日本に渡りに船とばかりに売却した。もっとも日本も爆撃機を作るための基にすると言うことは秘匿して買ったのだからいずれがアヤメカキツバタではある。元の機体が失敗作でそれを土台に4発爆撃機を制作したが、予定したエンジンの「護」は所定の出力が出ないばかりか振動が大きく信頼性に欠けていた。機体も前例のない大型機の開発に技術が追いつかず電気系統を始めとする機体各部にトラブルが頻発、機体重量も当初の予定を2割以上超過して運動性も劣悪な機体で敵艦に超低空から肉薄雷撃できない機体であったことから「バカ烏」という不名誉な渾名が付けられた。運動性の低い4発爆撃機を艦船攻撃に使うなどということ自体が暴挙だが、当時の海軍は97式大艇や2式大艇など4発水上機にも艦船攻撃をさせようとした。その後、長期間改修を続けながらテストされたが、結局6機の試作だけで不採用となった。この経験を土台に鹵獲した米国のB17などを研究して18試陸攻の試作を始めた。この機体は深山とは異なり引き締まったいい機体になっていたが、相変わらずエンジンが不調で排気タービン過給器も安定したものができず、試作された4機も全力試験が行えないまま戦況の悪化に伴い、「連山1機を作る材料で零戦10機が作れる」ということで開発は中止になってしまった。戦後1機が米国に運ばれたが、エンジン4基のうち3基が不調で整備資料などもなく米国も整備に手を焼いて1回飛行させただけでテストは打ち切られてしまった。エンジンは画期的高性能を歌われながら技術的に設計に追いつけずトラブルに泣かされた中嶋製の「誉」だった。結局、当時の日本には4発の大型爆撃機を制作する技術がなかった、・・というよりも高性能を狙い過ぎて自滅した。4発機といえば二式大型飛行艇がある。また一式陸攻開発の際に三菱側は、「金星エンジン4発の機体で性能とともに防御性を高めた機体を制作したい」と海軍側に意見を具申したが、海軍側はこれを一蹴、双発で長距離飛行ができて運動性のいい機体となったが、防御力が弱かった。この時に金星4発の大型機を制作していたら攻守バランスの取れたいい機体ができていたかもしれない。機体開発はともかくもエンジンやプロペラの技術力が欧米から大きく遅れていた当時の日本にとっては戦闘機にしろ爆撃機にしろ偵察機にしろ新規の機体開発には常にエンジンの不安が付きまとった。三菱のスペースジェット失敗も旅客機開発の技術やノウハウがなかったことによる。技術はそれを持っているものには微笑むが、ないものには冷酷ではある、・・(◎_◎;)。
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