太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第2回は、「橘花(きっか)」と同じくドイツの技術を参考にして日本の陸軍と海軍、それに民間企業が協力して開発を進めたのが、実用化を目前にして敗戦を迎えた「秋水(しゅうすい)」である。

ドイツと日本の間の連絡と輸送に従事した遣独潜水艦(けんどくせんすいかん)の伊号29潜は1944年4月、ドイツ占領下のフランス・ロリアンまで赴き、同年7月中旬、日本占領下のシンガポールに帰着した。同艦は、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262シュヴァルベ(後の「橘花」)と同Me163Bコメートの資料など、貴重なドイツの技術情報多数を搭載していた。そして、さらにシンガポールから日本本土に向けて出港したが、途中のバシー海峡でアメリカ潜水艦ソーフィッシュに撃沈されてしまった。しかし、ごく一部の概説的な資料が、駐独日本海軍武官で伊号29潜に便乗して戻って来た巌谷英一(いわやえいいち)海軍技術中佐の手で空輸されて日本本土に到着。これに基づき、「橘花」同様に開発が推進された。

そのため、当初はMe163と称されていたが、ある海軍下級士官が詠んだ短歌にちなんで、滑空試験の成功後に「秋水」と命名されている。なお、この名称は当時の日本の陸・海軍の航空機命名規則に関係なく採用されたものだった。「秋水」の開発に際して、陸軍と海軍はやっと協力し合うこととなったが、これは戦時下の兵器の開発と生産の観点からすれば、あまりに遅い決定といえた。さらに民間企業として、三菱航空機も加わっている。

しかし、巌谷が持ち帰った資料は既述のごとく概説的なものにすぎなかった。そのため陸・海軍と三菱は、機体とロケット・エンジンの設計開発を日本独自で進めなければならなかった。機体のほうは、海軍の主導により比較的容易に開発できた。だが、陸軍が主導したロケット・エンジンの開発は、その燃料の開発と並行的に行わねばならず、いろいろと苦労があった。

同じ噴射式エンジンながら、空気を取り込んで燃料を燃焼させるジェット・エンジンとは異なり、ロケット・エンジンは、外部から空気を取り込むことなく、燃料に化学剤を添加して燃焼させる構造だった。過酸化水素がメインの酸化剤に、メタノール、水化ヒドラジン、水から成る燃料を混ぜて化学反応させるのだが、酸化剤が「甲液」、燃料が「乙液」と称された。だが両液は毒性がきわめて強く、作業員は、取り扱い時には相応の防護が必要だった。

開発が先行していた機体の滑空試験は1944年12月26日、犬塚豊彦海軍大尉の手で行われた。この滑空用機体は「秋草(あきぐさ)」の海軍名称を付与されて練習機とされ、60機以下が生産されたといわれる。終戦を約1か月後に控えた1945年7月7日、横須賀海軍航空隊追浜飛行場で「秋水(三菱第201号機)」の初動力飛行が実施された。しかしエンジンの不調で整備しなければならず、予定より遅れた17時前に離陸。操縦桿を握るのは犬塚である。ところが離陸後に上昇を始めたところで、突然エンジンが黒煙を吐き出し停止してしまった。犬塚は、無動力となった「秋水」を滑空飛行によって滑走路に着陸させようとしたが、失敗して機体は大破。頭部に致命傷を負って翌日に殉職した。

事故の原因は、燃料タンクの欠陥だった。その後「秋水」2号機を千葉県の柏飛行場で陸軍が飛ばすことになったが、ロケット・エンジンが間に合わず、結局「秋水」の動力飛行は1度きりで終戦を迎えることとなった。ドイツ空軍は燃料生産の困難さとMe163の滞空時間の短さを問題視し、より効率のよい機体へと労力をシフトしたが、もし日本が「秋水」の実用化に成功したとしても当時の国情を考慮すればドイツの場合と同様の事態となった可能性が高いと思われる。(白石 光)

 

わずか1度ながら動力飛行を実施:ロケット局地戦闘機【秋水】(歴史人) - Yahoo!ニュース

 

わずかな資料を基に戦争末期の混乱した状況の中でロケット機を作って飛行させた努力はそれが戦争に貢献しなかったとしても称賛に値する。「秋水」の慣熟飛行とテスト飛行を兼ねて全木製の軽滑空機MXY8「秋草」の飛行試験は順調に回を重ね操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。1945年1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った。

「秋水」の試験飛行の失敗は312空司令柴田武雄大佐が「お光教」という新興宗教に傾倒していたことが悪影響を与えたと言われる。柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日に横須賀地区で行う」と発言、三菱の技術者らを茫然とさせ、その後も神のお告げと称し、秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更させた際は技術者達から狭いので危険と指摘があったが、「狭いのなら機体を軽くせよ」と命じ、1.5トンの機体が500キロにまで減らされた。また突然燃料を少量にしエンジンの持続時間を2分でいいと一方的に決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技術者達の意見は黙殺された。


試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。午後1時には上級将校も列席、午後2時に予定された発進はエンジンがかからず再整備のために遅れ、翌日延期も検討されたが、犬塚大尉の決心は固く試運転は続行された。午後4時55分、滑走を開始、滑走距離220メートルで離陸、高度10メートルで車輪投下、機体は角度45度で急上昇に移った。試飛行成功かと思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となり、異音とともにエンジンが停止、エンジン停止後余力で150mほど上昇した。廣瀬大尉の指示により東京湾には本牧あたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めるとともにエンジンの再起動が二度試みられるも果たせず甲液の非常投棄が始まったが、投棄に時間がかかり第三旋回時点の高度は充分に高かったが、その後の沈下速度がはやく高度を失い、残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指したが、そのために第四旋回が遅れ、失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首を上げた際に右翼端が監視塔に接触、そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。整備分隊士たちが犬塚大尉を操縦席から救出した。意識のあった大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌日未明に殉職した。事故の原因は燃料タンクの構造上の問題で秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇するが、燃料の取り出し口はタンクの前方に取り付けてあった。試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなりエンジンがストールを起こしたと結論付けられた。広い厚木基地で燃料を満タンにして飛行試験を行っていたら結果は変わったかもしれない。ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われてしまったために頓挫した。その後生産2号機(三菱第302号機)がキ200として千葉県柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され、荒蒔義次少佐はロケットエンジンを使う前にまず重滑空機で飛行特性をつかむ試験を行っていた。ロケットエンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま開発は続けられたが、エンジンは完成せず、最後まで動力飛行を行うことは無かった。
 

最新鋭試作機の試験飛行に新興宗教の神様のお告げもあったものじゃないが、仮に試験飛行を燃料満タンにして厚木でやって成功したとしてもこのロケット機は航続距離が短すぎてB29が基地上空を通過しなければ迎撃は不能だし、迎撃したとしても一撃か二撃で燃料が尽きればただのグライダーなので護衛の戦闘機に撃墜されてしまう。また速度が速すぎて照準が困難と言う話もあるので最終的には600キロの爆弾を積んでB29の編隊の中で自爆するような戦法が考えられていたという。いずれにしても資源もなく生産設備も破壊された戦争末期の状況でこのような機体を大量に運用する燃料も確保できず、また保管の難しい過酸化水素や水化ヒドラジンなど燃料の保管施設も確保できなかっただろうという。それにしてもそんな追い詰められた戦争末期に「橘花」やこの「秋水」などジェット機やロケット機を完成させて飛行させた官民の努力は称賛に値するだろう、・・(^。^)y-.。o○。

 

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