空母が出現するまで、海戦の花形的存在だった戦艦。日本海軍は、太平洋戦争に12隻の戦艦を投入した。そしていずれの戦艦も、蒼海を戦(いくさ)の業火で朱に染めた死闘を戦った。第5回は、日本海軍が「金剛」型巡洋戦艦とほぼ同時期に純国産で設計した超ド級戦艦「扶桑(ふそう)」型の1番艦で、スリガオ海峡海戦で壮絶な最期を遂げた「扶桑」である。
1910年代、日本海軍はイギリスの最新建艦技術を導入するため、超ド級巡洋戦艦「金剛」型の1番艦「金剛」をイギリスのヴィッカース社に発注する一方で、高速が命の巡洋戦艦よりも設計と建造が容易な超ド級戦艦の国内建造を行うことを決めていた。
当初は同型艦4隻の建造が予定されていたが、途中から設計に変更が加えられた結果、1番艦が「扶桑」、2番艦が「山城(やましろ)」として建造されたものの、3~4番艦は新たに「伊勢(いせ)」型としされ、1番艦が「伊勢」、2番艦が「日向(ひゅうが)」として建造された。
1912年3月11日に呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)のドックで起工され、1914年3月28日に進水。1915年11月8日に竣工した。その後、1930年4月から1933年5月にかけて第1次近代化改装工事が施され、続いて1934年10月から1935年2月にかけて第2次近代化改装工事が施されたが、どちらの工事も、建造された呉海軍工廠で行われた。しかし改装されても、「扶桑」型は速力がやや遅いのが欠点であった。そのため、太平洋戦争が勃発すると、空母機動部隊と行動を共にすることができなかった。
戦争中期には、出番がないことから練習艦として使用された時期もあった。しかし1944年10月の捷一号作戦に際しては、ひと月前の9月に同型2番艦の「山城」と共に第2戦隊を編成し、同作戦によって生じたレイテ沖海戦に臨んだ。ところがレイテ湾に向けて進撃中の10月24日、まずアメリカ艦上機の空襲を受けて爆弾1発を被爆し、浸水によりわずかに傾斜したまま航行を続けた。そして日付が25日に変わった頃、スリガオ海峡で強力なアメリカ艦隊の待ち伏せ攻撃に晒(さら)されてしまった。
このスリガオ海峡夜戦において、「扶桑」の右舷(うげん)中央部に魚雷1本が命中したが、このたった1本の魚雷が同艦の命取りとなった。何と、第3と第4の両主砲塔の弾火薬庫を誘爆させてしまったのだ。その結果、船体は真っ二つに折れて先に艦首側が沈没。艦尾側はしばらく浮いていたが、アメリカ重巡洋艦「ルイビル」が砲撃を加えて沈めたと伝えられる。なお、艦長以下全乗組員が、「扶桑」と運命を共にしたと伝えられる(わずかな生存者ありという異説も)。(白石 光)
日本軍が独自に設計し国内で建造を果たした扶桑型1番艦「扶桑」(歴史人) - Yahoo!ニュース
扶桑型戦艦は日本の独自設計による超弩級戦艦で完成時には世界最大の戦艦だった。しかし連装砲塔6基を艦全体に配置したために主砲を発砲した場合爆風が艦全体を覆うなど用法上問題があり、また連装砲塔6基の弾火薬庫防御のために防御面積が広くなり、また機関の配置スペースが不足するなど設計上の問題があった。扶桑型は太平洋戦争開戦までに2回の大改装を受けているが、改装の時期が早いために予算的に余裕がなくまた旧式の装備になるなど問題があった。特に防御力と速力の不足は致命的で戦闘行動には不適と言うことで砲術練習艦として内地に止まっていた。しかしフィリピンを巡る捷一号作戦で西村艦隊の主力として出撃し、スリガオ海峡で米海軍の戦艦部隊と砲撃戦を交え撃沈された。実際には米戦艦の砲撃ではなく魚雷艇の魚雷を受けたのが致命傷になったと言う。扶桑、山城も3番、4番砲塔を下ろして機関を増設して金剛型のように30ノット戦艦として改装しておけばいろいろ使い道があっただろう。同時に伊勢、日向もそうしておけばよかった。日本の工事能力や資材などの問題もあっただろうが、また艦隊決戦全盛期に戦艦の主砲を減じるなど許されなかったのかもしれないが、そうしておけば艦上、艦内スペースなども余裕があっただろうし、残念なことだった。長門型を含めてすべて30ノット戦艦にしておけばいろいろ使い様があっただろう。残念なことではある、・・(◎_◎;)。
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