姉妹艦「翔鶴」と五航戦を編成
1939(昭和14)年の11月27日は、旧日本海軍の航空母艦「瑞鶴」が進水した日です。「瑞鶴」は基準排水量2万5000トンあまりの正規空母。ワシントン・ロンドンそれぞれの軍縮条約を破棄した後に計画されたため大型で、全長は250mあまり、70機ほどの航空機を搭載できました。進水の約2年後に「瑞鶴」は竣工。当時は日米の開戦が濃厚となっており、事実、その契機となった1941(昭和16)年12月の真珠湾攻撃に「瑞鶴」は参戦しています。なお同年8月に竣工していた「翔鶴」は姉妹艦であり、両艦で「五航戦」こと第五航空戦隊を編成しました。
真珠湾攻撃では、「瑞鶴」が発進させた艦載機はハワイ空襲後に全機が帰還。特に第2次攻撃隊の指揮官には同艦の飛行隊長が任命されています。その後1942(昭和17)年4月にはセイロン沖海戦に参加。イギリス海軍の空母やオーストラリア海軍の駆逐艦を撃沈しています。続く5月には、オーストラリア北東域で繰り広げられた珊瑚海海戦に参加。これは史上初の空母同士の海戦でした。「瑞鶴」はアメリカ軍空母を攻撃し損害を与えましたが、自身はスコールに紛れたため無傷で帰還しています。6月には勝敗の転換点とされるミッドウェー海戦が勃発しますが、「瑞鶴」は不参加。これは珊瑚海海戦で「翔鶴」が大破し、五航戦が編成できなかったからでした。しかし結果、大敗北を喫したこの海戦を「瑞鶴」は“生き延び”たのです。
とはいえ制空権も徐々にアメリカに握られていったミッドウェー海戦後は、必然的に「瑞鶴」と「翔鶴」が空母戦力の主力となりました。ソロモン、南太平洋、マリアナと、優勢なアメリカ軍空母部隊と死闘を繰り広げます。ちなみに「瑞鶴」はマリアナ沖海戦(1944〈昭和19〉年6月)まで、1発も被弾していませんでした。
映画公開時、「瑞鶴」はすでに存在せず
ただマリアナ沖海戦では「翔鶴」に加え、最新鋭だった重装甲空母「大鳳」も沈没。航空機のほかパイロットも多数失い、日本の海軍空母部隊は壊滅状態に陥りました。「瑞鶴」も無傷では済まず損傷し、本土へ帰還しています。戦局が悪化の一途をたどる1944年9月、映画会社の東宝が開戦3周年を記念した映画『雷撃隊出動』を製作します。「瑞鶴」はロケに参加。零戦や艦上攻撃機「天山」を搭載する様子などが収録されました。
それから1か月。「瑞鶴」は史上最大の海戦とも称されるレイテ沖海戦に参加します。フィリピンを攻略しようとレイテ島に上陸してきたアメリカ軍に対し、「大和」を含む戦艦部隊がレイテ湾に殴り込みをかけるという作戦でした。このため、特に空母機動部隊が“囮”とされました。
10月25日午前、「瑞鶴」はフィリピン・ルソン島のエンガノ岬沖でアメリカ軍の空襲を受けます。飛行甲板に爆弾が命中し火災が発生、さらに魚雷も受け浸水が始まります。午後にかけ攻撃は続きますが、大型空母は格好の標的になりました。損傷し回避行動もままならない「瑞鶴」に、次々と魚雷や爆弾が命中。随所で火が上がり戦死者も増大し、もはや対空機銃すら撃てなかったといいます。14時過ぎ、浸水により傾いていった「瑞鶴」はついに沈没。一連の海戦で日本は空母4隻、ほか艦艇も多数失い、海軍機動部隊は事実上、壊滅したのでした。
ところで、9月にロケ協力した『雷撃隊出動』が、太平洋戦争開戦3周年にあたる同年12月7日に公開されました。しかしこの時すでに「瑞鶴」は存在しません。ただ「瑞鶴」は映画含め比較的多くの記録(写真など)が残っています。それは生きながらえた証でもあり、ゆえに「瑞鶴」は「武勲艦」「幸運艦」といわれています。(乗りものニュース編集部)
空母「瑞鶴」進水-1939.11.27 真珠湾からレイテまで、機動部隊を支えた大型艦(乗りものニュース) - Yahoo!ニュース
空母瑞鶴は帝国海軍の空母戦力の中核として開戦からレイテ沖海戦に至るまで数々の海戦に参加し、武勲を挙げた殊勲艦でマリアナ沖海戦まで被害を受けることなく活躍した幸運艦とも言われている。瑞鶴は1938年(昭和13年)5月25日に川崎造船所(川崎重工業)艦船工場で起工、1941年(昭和16年)9月25日就役、姉妹艦の翔鶴、駆逐艦朧、秋雲とともに第五航空戦隊を編成、その後、真珠湾攻撃、ラバウル攻略、インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参加、また戦闘の合間に輸送業務や改装なども行い、最終的にはマリアナ沖海戦での戦訓からガソリンタンクの防御強化や艦内のペンキをはがし、可燃物を撤去するなど徹底した不燃化対策が行われ、対空噴進砲(対空ロケットランチャー)、25mm機銃の増設や21号、13号電探、水中聴音器が追加装備された。
最後のエンガノ岬沖海戦では瑞鶴、瑞鳳、千歳、千代田の4空母、第四航空戦隊の航空戦艦伊勢、日向、軽巡洋艦多摩、五十鈴、大淀、駆逐艦初月、秋月、若月、霜月、槇、桑で編制された小沢艦隊の旗艦として米軍機と交戦、7本の魚雷と4発の爆弾を受けて沈没したが、戦訓に基づく数次にわたる改装で重防御・不沈化されて2本程度の被雷に耐える構造だったのが7本の被雷によって沈没するまでに強化されていた。沈没地点は北緯19度57分、東経126度34分と記録されている。
瑞鶴は同時期に建造された大和型戦艦と同形式のロ号艦本式重油専焼水管罐を高温高圧化改修させた8基のボイラーを搭載し、日本海軍の艦艇で最大となる160,000馬力を発揮、これで34ktという高速を達成しただけではなく不足気味だった蒼龍、飛龍より30%以上長い航続距離も達成している。またバルパスバウを採用した日本海軍の軍艦の中では最初に竣工した艦型で性能的にも帝国海軍を代表する正規空母だった。
空母の最大の弱点である飛行甲板への装甲は予算、工期工程、設計施工技術、搭載機数の確保の理由から次の正規空母大鳳に譲られたが、飛行甲板を貫通した爆弾が格納庫内で爆発した場合には飛行甲板への被害を最小限にするため爆風を舷側に逃すよう格納庫の側壁は簡易なものとされたが、サンゴ海海戦で翔鶴が被弾した際にはうまく機能せず飛行甲板が大破した。延焼対策としては従来の液化炭酸ガス噴射式に加えて粉沫式消火設備を装備している。また艦内の前部・中部・後部の三箇所に注排水指揮所を設置して被弾時の防御力を高めていた。
真珠湾攻撃に参加した日本の空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)のうち最後まで残ったのが瑞鶴で瑞鶴は正規空母として設計・建造され、米海軍の空母エセックス級にも匹敵する帝国海軍の主力空母でもあった。瑞鶴の沈没で帝国海軍の機動部隊は事実上消滅し、書類上の編成はともかく実際には機動部隊が復活することはなかった。
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