陸軍の戦闘機では一式戦闘機「隼」、これもゼロ戦とともによく働いた双璧だろう。翼が三本桁構造で主翼に機銃が装備できなかったことから機銃は機首の2門に限られ、武装が貧弱、速度が低いなど性能的に問題があったが、信頼性が高いことが買われて最後まで使用され続けた。常に安定した性能が出せることが搭乗員には何よりだったのだろう。

二式単戦「鍾馗」は速度重視の重戦闘機、武装は12.7ミリ4門とやや貧弱だが、600キロを超える速度は魅力ではある。ただ97戦や一式戦の軽快な運動性になじんだ搭乗員からは嫌われたようだ。長距離援護戦闘機は陸海軍でゼロ戦を使う。局地戦闘機は二式単戦を使うというようなことはできなかったのかねえ。

三式戦闘機「飛燕」、この戦闘機は水冷エンジンDB601のライセンス版を使っていたが、エンジンの故障が多く、大事な時期に活躍できなかった。3式戦のエンジンを空冷の金星に換装した5式戦が安定した性能で活躍したのだから最初から空冷エンジンで設計しておけばよかった。川崎は液冷エンジンに慣れていたというが、技術的に及ばなかったし、陸軍の整備員も水冷エンジンに慣れていなかったこともマイナスに働いた。

4式戦「疾風」は2000馬力級の誉エンジンを搭載した高速重戦闘機だったが、これもエンジンの不調でカタログ性能を出すことができなかった。それでも大東亜決戦機という名称で3500機も生産されているが、これと言った目立った活躍はない。

5式戦は3式戦のエンジンを金星に換装したもので速度は30キロほど遅くなったが、ラジエターなどの装備が必要なくなったことで300キロほど軽くなったことで上昇性能や運動性が増し、何より故障が少なくカタログ性能が出せることが買われたようだ。結局陸軍は最初から最後まで一式戦闘機で戦ったようなものだろうか。

複座戦闘機としては2式複戦「屠龍」、これは双発複座戦闘機大人気で作られたが、運動性では単発戦闘機に対抗できず、夜間戦闘機としてB29迎撃に使用され活躍した。日本は重爆、軽爆などいろいろ作ったが、どれもこれも爆弾搭載量が少なくこの屠龍を地上攻撃機として使えばそれなりに活躍できただろう。この機体なら250キロ爆弾を2発くらいは搭載できただろうから99式双軽などを作る必要はなかっただろう。また運動性を捨てて速度と上昇力を重視した双発単座戦闘機を作っておけばB29迎撃にも使えただろう。また陸軍には直協という近接攻撃機があったが、これも屠龍で間に合っただろう。

重爆撃機は97式、100式、4式の3種類があったが、いずれも爆弾搭載量が1トンかそれ以下で打撃力が小さい。陸軍は反復攻撃を重視したそうだが、何度も出ていくよりも一撃で潰した方が合理的ではある。100式は武装が強力でなかなか敵機を寄せ付けなかったとか。また4式重爆は飛行性能が非常に優れていたそうだ。空身なら宙返りもできたとか。

偵察機は100式司令部偵察機、これは高速、長距離飛行ができた非常に高性能の機体だった。その飛行性能を買われてB29 迎撃にも使用された。試作機ではキ96、キ83、キ87、キ94などだろうか。キ96は屠龍を改造した双発単座戦闘機でなかなかいい性能だったが、陸軍の使用法夫雄があいまいでボツになった。キ83は開発が続いていたが、試作で終戦となってしまった。米軍の試験では762キロとかいう高速を出したとか。キ94は画期的な高高度戦闘機だったが、試験飛行目前で終戦となってしまった。キ87は中島の高高度戦闘機だが、脚を90度ひねって引き込むなんてことをするので作動不良でボツになった。

陸軍の軍用機もあちこちで戦ったんだろうが、海軍と比較するとあまり目立たない。特に昭和17年、18年の時期に南太平洋でもう少し稼働出来たら海軍も助かっただろうと言う恨み節も聞こえるようだ。海軍でもゼロ戦の後を継ぐ戦闘機が出てこなかったが、陸軍も隼の後を継ぐ戦闘機は出なかったようだ。

海軍も陸軍も人的、物的資源が小さい日本だからお互いに融通し合って航空機の開発を行えばよかったのだが、セクト主義というか、お家大事というか、自分の所ばかりに目が行ってしまって共同しようなんて意識はなかったようだ。戦争末期になって一部の戦闘機開発で陸海共同というのがあったが、時すでに遅しの感があった。

軍用機というのは性能も大事だが、どんな状況でもきちんと動いて定められた性能を発揮することが何よりも大事なことだろう。それにはやはり基礎技術というのが重要なんだろう。なんだかんだで重用されたのは燃料と潤滑油を入れればきちんと動きてくれる機体ではあったようだ、・・(^。^)y-.。o○。

 

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