「じゃあ場所は、‥ええと、リビングにしましょうか。奥様はどうしますか」
「あれは酒が飲めませんから寝かせておけば大丈夫です」
「じゃあ何か羽織ってきてください。」
僕はそう言うと例の部屋の鍵を開けた。開いたとたんにクレヨンが飛び出してきた。
「ひどいじゃない。私をこんなところに閉じ込めてあんな人と、・・」
僕はクレヨンの足を蹴飛ばしてやった。
「総務課長の前で余計なことを言うんじゃないの、バカね」
僕はクレヨンの首を抱え込むと小声でそう言ってやった。総務課長には分かってしまったようで「申し訳ありません」と小声で言った。
「奥様はここに残しておいて大丈夫ですか。お連れしますか」
僕がそう聞くと総務課長は「このまま寝かせておいて大丈夫です」と答えた。僕はクレヨンに「今にビールとつまみを持っておいで」と言いつけて二階に上がって女土方と知的美人に声をかけた。
「人助けだと思ってお願い」
僕が頼むと二人とも快く引き受けてくれたのでまた階下に降りて総務課長を居間に連れて行った。クレヨンは大量の缶ビールと乾きものを持ち込んでいた。僕たちがだだっ広い居間に入るとすぐに女土方と知的美人も部屋に入ってきた。全員が揃うと総務課長が「先ほどは取り乱してしまってすみませんでした、・・」と謝り始めたのでそれを押し止めて「そんなこと大丈夫ですよ。それより乾杯しましょう」と缶ビールを手に取った。
「何に乾杯するの」
クレヨンが聞くので「穏やかな明日に乾杯するのよ」と答えたが、正直僕自身も何に乾杯するのかよく分からなかった。まあ皆が穏やかに暮らせるようにと言うことでいいだろう。しばらくは誰も口を利かずに黙ってビールを飲んでいた。そこに大ドラ公が入って来たので膝にのせてやった。何となく重苦しい沈黙が続いたが、総務課長がぼそりと口を開いた。
「あいつはね、自分で様々な海外研修プログラムを立ち上げて運用してみたいっていう夢があったんです。あいつは私のようなただの事務屋と違っていろいろ才能があったんです。会社の退職金と貯えを足して彼女の希望でウォーターフロントのタワーマンションを買ってそこを拠点としてあれこれ自分の目標に向かって活動していたんです。そのころのあいつは私からすれば間違いなく輝いて見えました。ところがしばらくするうちに辻褄の合わないことを言い出したり、物忘れがひどくなったりし始めました。
最初は疲れているのかなと思いましたが、そのうちに仕事や家庭生活にも支障をきたすほどになって私もこれはおかしいと思って嫌がるあいつを無理やり医者に連れて行ったら認知症と診断されました。もう若くはないと言っても50になったばかりですよ、あいつは。まだまだ盛りじゃないですか。それでね、私も医者に頼んだんですよ。何とか治してやってくれって。でも発症してしまったら現代の医学では手の施しようがないと言われてしまって。あいつは『自分は絶対にそんな病気じゃない』って言い張っていましたけどそのうちに自分が病気だという認識もなくなってしまって。
つれ合いがどんどん自分をなくして崩れていくのをただ見ているしかないっていうのも辛いですよね。あいつを殺して自分も死のうと何度も思いましたよ。でもね、そうして壊れて行くのに時々パソコンに向かって何か一生懸命になってやっていて時々私の方を振り返ってにっこり笑うんです。そんなあいつを見るとそんなこととてもできませんよね。そうしてここまで来てしまったんです。皆さんには本当に迷惑をおかけして申し訳なく思っています。でもね、私、どうしていいのか分からないんですよ。あいつに何をしてやればいいのか。」
総務課長はビールの缶をテーブルに置くと大粒の涙を流して僕たちを見まわした。どうしたらいいのか教えてくれと言っているようだった。そんな総務課長に誰も言葉をかけようがないようで誰もが下を向いて黙っていた。
「課長、人は誰でも老いて死んでいきます。奥様だけではなくて私たちもそれは一緒です。でも最後の最後まで一生懸命生きようとしています。奥様はお若くして不幸な病気を得てしまいました。でも奥様も残された時間を一生懸命生きているんです。だからそんな奥様を見ていてあげればいいじゃないですか。奥様を残して死のうとするなんて以ての外ですよ。私たちから見れば奥様のやっていることは支離滅裂に見えますが、それでも奥様は一生懸命病気と闘っているんでしょう。だったら最後までそれをしっかり見ていてあげるのが課長さんの役目でしょう。私たちもできることはしますから、・・ね、しっかり見ていてあげましょう」
総務課長は肩を震わせて泣き始めた。きっと男泣きするほど辛いんだろう。その時知的美人が席を立って部屋を出て行った。どこに行くのかと思ったら例の部屋に行って奥さんを起こして連れて来た。
「さあここに座ってください。」
知的美人は奥さんを総務課長の横に座らせた。
「みなさん、パーティなの。私こんな格好で恥ずかしいわ。」
奥さんはそう言って総務課長を見た。
「あら、あなたも参加しているの。職場のパーティなの」
奥さんはそう言って総務課長に微笑みかけた。
「お前、僕が分かるのか。僕が誰だか分かるのか」
総務課長は奥さんの肩をつかむと何度もそう聞いた。
「何言っているの。自分の旦那様くらいわかるわよ。でもほかの人はみんなきれいな若い女性ばかりね。あなた、浮気でもしてるの。」
笑いながらそんなことを言う奥さんに縋りついて総務課長は肩を震わせて泣いていた。
「どうしたの。男のくせにめそめそして。それよりここはどこなの。私の家はどこだったかしら。あなた、知ってる」
奥さんはそう言うと総務課長を見た。
「しばらくはここに泊めてもらうことにしたんだ。お前、自分の家がどこなのか分かるのか」
「ここじゃないと思うけどよく分からないわ。私のうちってどこなの。」
知的美人が奥さんにビールの缶を差し出した。
「一緒にお飲みになりませんか。お酒はダメですか。」
奥さんはビールの缶をまじまじと眺めて「のどが渇いていたので丁度よかったわ。でもこれってビールよね。まあいいわ、いただくわ」と言ってプルトップを開けようとしたが、うまく行かず知的美人が開けてやった。奥さんは缶に口をつけると一気にごくごくと喉を鳴らして飲んで「ふぅっ」と息を継いだ。
「おいしいわね、これって」
奥さんはそう言うとまた缶を口に当てた。そうしたら総務課長が慌ててビールの缶を取り上げた。
「こいつ酒飲めないんです。悪酔いするんです。」
総務課長は缶ビールをテーブルに置くと奥さんをそっと座らせた。その様子がとても優しげだった。奥さんはすぐに顔が真っ赤になってふらふらし始めた。確かに酒には弱いようだ。
「すみません。お酒が飲めないなんて知らなったもので、・・」
知的美人が恐縮していたが、総務課長は軽く首を振ってから「寝かせて来ます」と言って奥さんをお姫様抱っこして部屋を出て行った。そのあとから知的美人が追いかけて行った。しばらくすると二人が戻って来た。
「あれは休みました。皆さんにはいろいろ良くしてもらって本当にありがとうございます。さっきも言われたようにあいつの生きた証を見届けてやれるのは私だけなんです。だから最後まであいつの生きた証を見届けてやらないといけないんですよね。それをあいつを残して死んでしまおうなんてそんな弱い自分が恥ずかしくなりました。あいつも一生懸命生きているんですね、だから私も一生懸命生きないといけないんですよね。あいつの生きた証を見届けてやるために、そうですよね、佐山さん」
知的美人は柄にもなく大粒の涙をぼろぼろこぼしていた。クレヨンも泣いていたし、女土方も目に涙を浮かべていた。
「課長さん、あなたって優しい人で心から奥様を愛しているんですね。奥様もきっと幸せだと思います。素敵な旦那様にこんなに愛されているんですから。だからさっきは旦那様のことを思い出したんですね。せっかく旦那様のことを思い出したんですから忘れないようにしっかり奥様を見ていてあげてくださいね。課長さんしかそれが出来ないんですから。私たちもお手伝いできることはしますからお願いしますね。」
僕はそう言ってから『また余計なことを言ってしまった』と後悔した。これでこの件もまた僕の担当と言うことになってしまうだろう。こんな感動的な場面に不謹慎とは思いながらまた余計な負担を背負い込んでしまったとひそかに考えた。
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