この世の中に神や仏がいるかと問われたら即座に「いない」と答える。織田信長が比叡山焼き討ちを必死に諫める明智光秀に「あの仏像は木と金で人が作ったものだと教えてやらないといけないな」と言ったそうだが、全くその通りだと思う。ただ奈良時代や平安時代の仏像は仏教が国家や国民を救うと言う一途な願いを込めて作っているので出来がいい。特に表情がいい。それに比べて江戸時代の仏像はパックツアーのアイコン的なものなので派手だが、出来が良くない。特に顔がいけない、・・と言っていた人がいたが、確かにその通りと思う。

織田信長は無神論者だと言うのがこれまでは一般的だった。その証は比叡山の焼き討ちと一向宗や高野山の弾圧だと言う。でもこれは宗教を弾圧したと言うのではなく敵対勢力をせん滅しただけでおとなしく宗教だけをやっていれば保護している。ところが最近は仏教の信者だったという説が出ている。これは宗教を保護しているし、安土城に総見寺と言う寺まで作っているからだろうか。宗教を保護したのは世論に配意したためだろうし、総見寺を作ったのは「ありもしない神や仏を拝むなら自分を拝め。その方がきっとご利益があるだろう」と言ったそうだが、これは信長の合理主義とユーモアだろう。ただ信長は宗教の人心掌握力と操縦力は認めていただろうし、自分流の寺院を作ったのはそうしたことに関してのシミュレーションだったのかもしれない。

まあいずれにしてもこの世の中に神様なんてものはいないと思うが、もしもいるとすればそれぞれ個人の心の中にいるのだろう。神がいると思う人の内心には神が存在するんだろう。ただそれは内心の情の問題であって日本の寺社仏閣のように「金運、学業成就、恋愛成就、安産、商売繁盛、家内安全等々」実利と結びつくものではない。宗教を実利と結びつけるのは株式会社寺社仏閣の世界だろうが、寺社仏閣も維持するには金が必要なので仕方がないのかもしれない。

そんなわけで個人的には神も仏もいないと思うのだが、もしも本当に出てきたらびっくりするだろう。そんな映画を作ったのが大映で今はもう潰れてしまって存在しないが、ガメラシリーズなどを作っていた。その中に「大魔神」シリーズと言う3作があった。これは戦国時代が背景で下剋上で悪辣な手口で領主から領地を奪った家臣が旧領主の息子や家臣、領民を虐待するが、領主の若い娘が涙を流して救いを求めると魔神像の穏やかな顔が怒りの形相に変わって悪辣な成り上がり領主を退治する物語だ。領主も火縄銃、投擲機、火襖や爆薬などで対抗するが、そんなものが神様に効果があるわけもなく退治されてしまう。しかしこの神様、ちょっと節操がなくて善良な庶民が暮らす里にも暴れだそうとするが、それを止めようと領主の息子が縋って頼んでも意に介さないが、若い娘が泣いて頼むと怒りが解けてどこへともなく飛び去ってしまう。

似たような話があと2本作られたが、怪獣版の変形のようなものだが、なかなかよくできている。内容が子供っぽくないところがまた味がある。それで悪役もあの手この手で抵抗するのだが、相手は神様なんだから何をしても無駄だろう。怪獣なら我々と同じ生き物だからやり様によっては何とかなるだろうけど相手が神様では我々とはレベルが格段に違うのだからどうにもならないだろう。何しろすべてを超越している存在なんだから。

でも神様と言うのはなかなか姿を現さないのが一般的ではある。シュワちゃんの「エンドオブデイズ」という作品も1千年に1回世界を征服しようとする大悪魔は禍々しく現れるが、神様は最後まで現れない。シュワちゃん演じる警察官が最後は悪魔が乗り移ったわが身を犠牲にして大悪魔を封じ込める。「神は自ら助くるものを助くる」版で終わっている。神と言う存在は我々人間を超越した存在なのでなかなか描き難いのかも知れない。

もしも本当に目の前に神様が出てきたら土下座してしまうだろう。そう言えば「鎌倉ものがたり」にも貧乏神さんが出てきていたな。その辺のじいさんのような姿だったが、これもなかなかすごい力を持っていて横恋慕の魔物を簡単に封じていた。やはり神様と言うのはすごいものだ。だから神様が現れたらひたすら恭順で抵抗などあり得ない。でももしも本当に大魔神が出たら一生懸命お願いして尖閣諸島を守っていただきたい。大魔神なら極超音速ミサイルだろうが、核弾頭だろうが、問題ではないだろう。もっとも神様は平気でもあんなところで核爆弾が爆発したらまた放射能汚染で人間が困るだろうけど。神様と言うのは家内安全とか学業成就とか恋愛成就とか金運とかそんなことをお願いしているのがいいのかもしれない、・・(^。^)y-.。o○。

 

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