零戦の正当な後継機である烈風は試作段階でエンジンの馬力不足やら何やらでもたついて結局間に合わなかった。これは何をおいても当時の日本のエンジン開発技術が欧米に比較して5、6年遅れていたせいで当時の日本では安定して2千馬力を出せるエンジンがなかった。本来なら9試(96艦戦)、12試(零戦)と3年ほどで新型艦戦が試作されているので零戦の後継は15試、遅くても16試あたりで試作を開始しないといけなかったのだが、適当なエンジンがなく延び延びになって最終的に中島の誉が海軍の審査をパスしたのでこれを使って新型の艦戦を作ることになった。
ただ海軍が格闘戦に対して固執し翼面荷重130キロと決定して烈風の翼面積は30.86平米と言う巨大な翼を持った戦闘機となった。これは零戦が21平米、紫電改が23.5平米、陸軍の四式戦が21平米と他の日本戦闘機と比較しても異常に大きい。この大きな翼で水平面の運動性はよくなったのかもしれないが、重量、抵抗ともに増して速度は550キロほど、上昇力は6千メーターまで10分と言う悲惨な状況になってしまった。これは翼だけのせいではなくエンジンの出力不足も原因しているとは思うが、最大の原因は巨大な翼だろう。
どのくらい大きいかと言うと床の間と押入れがついた8畳間が胴体の両側に付いているといった具合である。その後、三菱製のハ43の換装した時点では自重が増加して翼面荷重が150キロほどになっているが、翼面積は変更がない。可能であれば正規全備重量が4500キロほどに軽量化して翼面荷重175キロほどにすれば翼面積は26平米ほどになり押入れと床の間分がなくなる。こうすれば軽量化にもつながるし重量軽減も可能だろう。そうすると速度と上昇性能は向上するだろうが、水平面での運動性は低下するだろう。それでもエンジンが額面通りの馬力を出せば時速で650キロ以上は出るだろう。
ただ紫電改も改5と言う改良型で三菱製のハ43装備のものができていたので翼面積が小さく重量も軽い紫電改5の方が性能的には上でグラマンF8Fにも対抗できただろうという意見もある。それもハ43が額面通りの性能を発揮すればと言う条件が付くが、戦争末期の日本の生産状況を考えるとハ43が額面通りの性能を発揮するのはかなり難しかっただろう。
当時として最も確実な方法は昭和18年に零戦52型を製作したときにエンジンを金星に換装してこれで何とか19年の前半まで戦線を支え、19年の後半に新型の戦闘機を戦線に投入できればと思うが、現実にはこれが難しく、後継の戦闘機は20年の初頭になってしまった。これも当時の日本の工業力の限界なんだろう。烈風は海軍の主流たる艦上戦闘機として設計開発されたが、当時はもう艦載機を乗せる空母もなかったので艦載機に拘らずにある程度翼面荷重を大きくして機体の小型化を図ってもよかったのかと思う。
誉は2千馬力とはいってもそれは離昇出力で高度6千メーターでは1600馬力程度だった。それに比較して米国のR2800エンジンは排気量が45リッターと大きく余裕がありトルクも大きいのに誉は排気量が36リッターと小さく回転数で馬力を稼ぐ設計なので加速性能などにも大きな差があったそうだ。車で考えればV8の4.5リッターエンジンとV6の3.6リッターエンジンではパワーに関して勝ち目はないだろう。いずれにしても戦争では性能も必要だが、安定して動くことも重要な要素なのでその点で見れば日本が実用化できたエンジンは1500馬力級の金星だったのでこれに頼るか、小型高出力を狙い過ぎずもう少し余裕のある設計で新しいエンジンを作るべきだったのだろうが、負けが込んでくると何とか一発逆転をと考えて自分たちの技術レベルを超えたハイテクエンジンを作ろうとしてしまうのだろう。
そうして考えると米国には工業力や資源のほかに技術でも勝てる見込みはなかったんだろう。結局当時の日本の技術で安定した性能を発揮して稼働率もそれなりに高い戦闘機と言うと海軍では金星零戦、陸軍では5式戦と言うところだろうか。やはりどう考えても技術的にも米国に勝てる可能性はないようだ、‥(^。^)y-.。o○。
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