不採用からジョブチェンジで一転して採用へ
当初、想定された場所や用途などとは異なるところで、思いもよらず活躍するというのは、まま見受けられます。たとえば、太平洋戦争中に旧日本海軍が用いた夜間戦闘機「月光」はまさにそのような機体で、同機は2度も使い方が変わっています。「月光」は、最初から夜間戦闘機として開発されたわけではなく、当初は味方爆撃機に随伴して長時間飛行する、長距離護衛戦闘機として設計されました。1941(昭和16)年3月に「十三試双発陸上戦闘機」として完成しますが、先んじて運用されていた零式艦上戦闘機(零戦)のほうが護衛戦闘機として優れていたため、最終的に不採用になります。
当初、想定された場所や用途などとは異なるところで、思いもよらず活躍するというのは、まま見受けられます。たとえば、太平洋戦争中に旧日本海軍が用いた夜間戦闘機「月光」はまさにそのような機体で、同機は2度も使い方が変わっています。「月光」は、最初から夜間戦闘機として開発されたわけではなく、当初は味方爆撃機に随伴して長時間飛行する、長距離護衛戦闘機として設計されました。1941(昭和16)年3月に「十三試双発陸上戦闘機」として完成しますが、先んじて運用されていた零式艦上戦闘機(零戦)のほうが護衛戦闘機として優れていたため、最終的に不採用になります。
こうして、いったんは消えかけますが、長い航続力と頑丈な機体、自衛戦闘可能な武装を持つ点から、太平洋戦争勃発後の1942(昭和17)年7月に「二式陸上偵察機」として復活します。ただし零戦よりも鈍重だったため、戦争が激しくなると大きな被害を被るようになり、結局、偵察機としても使われなくなりました。一方そのころ、南太平洋の最前線では、アメリカ軍のB-17やB-24といった大型爆撃機をいかに迎撃するかが課題になっていました。被弾しても墜ちにくく、いくつもの銃座を機体の前後左右に配置していたアメリカ製爆撃機に日本側は手を焼いており、そこで偵察機として使えなくなった二式陸上偵察機に「斜め銃」を搭載し、試作迎撃機に仕立て上げます。
なぜ「月光」は夜間を戦えたのか?
「斜め銃」とは、胴体の上下に前向き30度の角度をつけて装備した機銃のことで、これを用いると飛行する敵爆撃機の後方斜め下側、もしくは後方斜め上側から攻撃を加えることができました。それらの位置は爆撃機にとっては死角になるため効果が高く、特に夜間においては接近を悟られにくい位置になります。考案当初、軍首脳部は効果があるのか半信半疑でしたが、ラバウルの航空部隊が成果を出すと大々的に採用されました。こうして、二式陸上偵察機改造の試作迎撃機は、昭和18(1943)年8月に夜間戦闘機「月光」として制式化されました。夜間飛行は、昼間と違って極端に視野が狭くなり、上空と海面や地上との識別が困難になることもあるため、飛行場から飛び立つことはできても迎撃し、帰還するのは非常に困難です。そのため航法や通信が非常に重要で、その点で乗員が手分けしてこれにあたることができる複座機の「月光」は、単座機に比べて有利でした。
また機体が大柄なため、レーダーを装備することができ、その点でも夜間戦闘機に向いていました。というのも、当時のレーダーは大型で、しかも操作には手のかかるものだったため、パイロットがひとりしかいない単座機に装備することは難しく、レーダーを搭載するのは他国も含めて双発の多座機ばかりでした。「月光」は数少ない日本のレーダー搭載機になり、旧日本海軍唯一の夜間戦闘機として用いられます。
B-29を16機撃墜のエースも登場した夜間戦闘機「月光」
こうして誕生した夜間戦闘機「月光」を操り、16機もの撃墜、撃破の記録を打ち立てたのが、遠藤幸男中佐です。遠藤中佐は二式陸上偵察機を「月光」に生まれ変えさせる試験飛行のときから関わっており、斜め銃による射撃の第一人者として一時、最前線の南太平洋ラバウルで戦ったのち日本本土防空戦で活躍しました。神奈川県厚木基地を拠点にB-29爆撃機の迎撃にあたり、その撃墜数から国民的英雄にもなりますが、1945(昭和20)年1月14日の防空戦で戦死しました。このほかにも、「月光」でエースになったパイロットには、B-17を計8機撃墜し「ラバウルの夜の王者」と称された工藤重敏少尉や、日本本土防空戦でB-29を6機撃墜した黒鳥四朗中尉などがいます。しかし、そうしたエースが誕生した一方、高々度性能が不足していた「月光」は、高度1万mを飛ぶB-29に一般的な技量の搭乗員が立ち向かうには厳しいものがありました。しかも1945(昭和20)年4月以降、硫黄島を拠点にアメリカ軍側が護衛のP-51戦闘機などをB-29につけるようになると、十分な戦果を挙げるのが難しくなっていきます。それでも、後継機の開発遅延や、戦闘機総数の絶対的不足から、「月光」は敗戦まで戦い続けました。(柘植優介(乗りものライター))
こうして誕生した夜間戦闘機「月光」を操り、16機もの撃墜、撃破の記録を打ち立てたのが、遠藤幸男中佐です。遠藤中佐は二式陸上偵察機を「月光」に生まれ変えさせる試験飛行のときから関わっており、斜め銃による射撃の第一人者として一時、最前線の南太平洋ラバウルで戦ったのち日本本土防空戦で活躍しました。神奈川県厚木基地を拠点にB-29爆撃機の迎撃にあたり、その撃墜数から国民的英雄にもなりますが、1945(昭和20)年1月14日の防空戦で戦死しました。このほかにも、「月光」でエースになったパイロットには、B-17を計8機撃墜し「ラバウルの夜の王者」と称された工藤重敏少尉や、日本本土防空戦でB-29を6機撃墜した黒鳥四朗中尉などがいます。しかし、そうしたエースが誕生した一方、高々度性能が不足していた「月光」は、高度1万mを飛ぶB-29に一般的な技量の搭乗員が立ち向かうには厳しいものがありました。しかも1945(昭和20)年4月以降、硫黄島を拠点にアメリカ軍側が護衛のP-51戦闘機などをB-29につけるようになると、十分な戦果を挙げるのが難しくなっていきます。それでも、後継機の開発遅延や、戦闘機総数の絶対的不足から、「月光」は敗戦まで戦い続けました。(柘植優介(乗りものライター))
双発3座で7.7ミリ機銃4連装の電動銃座をつけた機体が軽量小型の単発単座の戦闘機と格闘戦をやって勝てるはずがない。当時は長距離援護戦闘機としてドイツのBf110を筆頭に双発複座、あるいは3座の戦闘機が作られたが、成功したのは英国のモスキートと米国のP38くらいでこれらも高速にものを言わせて一撃離脱を心がけたのでなんとかなったという程度だろう。日本もドイツにならって海軍の月光や陸軍の二式複戦が作られたが、いずれも戦闘機としては物になっていない。ドイツのBf110もバトルオブブリテンで英国のスピットファイアやハリケーンにバタバタ撃墜されてこの戦闘機を護衛する戦闘機が必要とか泡食っていたようだ。日本の複戦も速度は500キロ程度、運動性は単座戦闘機に及ばないではとても戦闘機としては使えなかっただろう。しかし、当時のドイツの勢いに影響されてあまり考えもなく勢いで作ったんだろうけどどうせ作るなら加速と上昇力に命を懸けた双発戦闘機でも作ればよかったんだけどねえ。戦争末期に海軍は「天雷」という双発戦闘機を作ったが、これもエンジンの不調とナセル失速の傾向があってポシャってしまった。最もうまく行っていたのは陸軍のキ96と言う双発戦闘機だが、双発戦闘機に対する定見がなくこれも試作で中止になってしまった。日本の戦闘機はすべて格闘性能と言う項目が加えてあってそれが戦闘機に縛りをかけていた。本来、双発戦闘機に格闘性能など必要ないのだが、何でもかんでも「格闘性能」は設計者にとってはこの上ない呪縛だっただろう。キ96などは600キロの速度を記録し、垂直上昇も可能だったというが、翼面荷重を250くらいにして高速重武装の対爆撃機用戦闘機とすれば使えたかもしれない。月光も二式複戦も最後は対B29用の夜間戦闘機としてそれなりに活躍はしたが、500キロ程度の速度では夜間中高度で侵入してくるB29を狙うのが精一杯で1万メートルを飛行するB29には息切れを起こしていた。最もそれはこれら双発複座戦闘機だけではなくすべての日本戦闘機に当てはまることではあったが、・・(^。^)y-.。o○。
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