真珠湾攻撃参加空母6隻の一角
激戦のなかでも不思議と敵弾が当たらなかったり、味方が大敗した海戦に偶然参加できずこれを回避したりするような、なにかと運の強い「幸運艦」のひとつに、旧日本海軍の空母「瑞鶴(ずいかく)」が挙げられるでしょう。1941(昭和16)年12月8日、日本海軍の空母6隻「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」そして「瑞鶴」は、太平洋におけるアメリカ海軍の拠点、ハワイ真珠湾を攻撃します。まだ戦艦中心の大艦巨砲主義が主流の時代を終わらせるような奇想天外な作戦であり、日本海軍にとっては運用可能な空母戦力のほとんどを投入した、事実上の「決戦」でした。
 
「瑞鶴」の起工は1938(昭和13)年5月25日で、当初の竣工予定は1941年12月とされました。1939(昭和14)年になってアメリカとの緊張関係が高まり海軍から工期短縮が要求され、予定を3か月前倒しすることになり、竣工したのは1941年9月25日でした。2年前の工期短縮督促のおかげで、ぎりぎりのタイミングで真珠湾攻撃作戦へ間に合いました。1941年8月8日に竣工していた姉妹艦「翔鶴」と組んで、「五航戦」こと第五航空戦隊が編成されます。真珠湾攻撃に備えて「赤城」「加賀」の一航戦(第一航空戦隊)、「蒼龍」「飛龍」の二航戦(第二航空戦隊)が訓練を積んでいた一方で、編成されたばかりの五航戦は訓練量が少なく技量が劣るとみなされ、作戦では比較的、難易度が低い飛行場など地上目標攻撃を担当することになりました。
 
運も実力のうち 幸運な「瑞」
「瑞鶴」の「瑞」の字には吉兆を表す意味がありますが、冒頭でも触れたように、その名の通りの幸運艦でした。幸運は建造から始まっています。大型艦の建造で、先に紹介したような工期短縮という作業環境で現場に負担を強いたにもかかわらず、重傷、死亡災害が1件も発生しなかったそうです。真珠湾攻撃では技量が劣ると評価されていましたが、第一波に出撃した零戦6機、九九式艦爆25機、第二波の九七式艦攻27機が全機、帰還しています。また第2次攻撃隊の指揮官は一航戦、二航戦を差し置いて、「瑞鶴」飛行隊長 嶋崎重和少佐が任命されています。この嶋崎少佐は五航戦雷撃隊を率いて、のちの珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を撃沈する武勲も挙げています。1942(昭和17)年5月4日、世界初の空母同士の海戦となった珊瑚海海戦が発生します。5月8日に日米の艦載機はお互いの空母を攻撃し、「翔鶴」は被弾大破しますが、「瑞鶴」はスコールに逃れ無傷でした。しかし艦載機の損害は大きく、「翔鶴」は修理に3か月必要と判定され、五航戦は6月上旬のミッドウェー作戦に参加できなくなります。結果、惨敗したこの作戦に参加しなかったことで「瑞鶴」は生き残ります。これも幸運と言えなくもありません。
 
ミッドウェー後を支え続けた「瑞鶴」と機動部隊最期の日
ミッドウェー海戦ののち、「瑞鶴」は「翔鶴」と共に日本海軍空母戦力の主力となり、ソロモン、マリアナ、レイテと、優勢なアメリカ空母部隊と死闘を繰り広げます。1944(昭和19)年6月19日、マリアナ沖海戦で姉妹艦「翔鶴」が潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没、「瑞鶴」もついに命中弾1発、至近弾5発を受け小破しました。この海戦で期待の装甲空母「大鳳」も撃沈され、艦載機戦力も消耗して事実上、日本海軍空母部隊は壊滅状態になります。それでも幸運といえるのか、「瑞鶴」はまだ生き残っていました。開戦3年目となる1944年に、映画会社の東宝が開戦3周年記念として映画『雷撃隊出動』を製作します。マリアナ沖海戦から帰還し瀬戸内海に在泊中だった「瑞鶴」も9月23日、ロケに協力して映画出演しました。
 
しかし悪化する戦局に、その運も使い果たす時がやってきます。1944年10月、フィリピンに侵攻してくるアメリカ軍を迎撃するレイテ沖海戦が始まります。日本海軍艦船60隻以上、航空機約600機、アメリカ海軍艦船200隻以上、航空機約1000機、日米の稼働戦力を総動員し、合わせて20万人以上の兵力が投入された、史上最大の海戦ともいわれます。日本側も数だけはそれなりに揃えたように見えますが、度重なる敗北で人的損失は大きく技量水準は圧倒的に低下しており、機動部隊にはもはやまともな艦載機戦力はありません。それでもやはり空母は目立つので、最後の機動部隊として「瑞鶴」は、敵機動部隊を引き付ける囮役を引き受けます。
 
フィリピン ルソン島の北東端エンガノ岬沖で10月25日、「瑞鶴」は敵艦載機の集中攻撃を受け、魚雷7発、爆弾が6発から8発命中、至近弾多数で沈没します。囮役は果たしましたが、海戦は日本の惨敗でした。9月にロケ協力した『雷撃隊出動』が、太平洋戦争開戦3周年記念日の1944年12月7日に公開されますが、この時には「瑞鶴」は沈没していました。「瑞鶴」沈没時の様子は、珍しく日本側が撮影した画像が残されています。比較的多くの画像が残されて、勇姿を偲ぶことができるのも、幸運艦の証といえるのかもしれません。(※一部修正しました(2月3日14時10分)。月刊PANZER編集部)
 
帝国海軍空母「瑞鶴」は開戦劈頭の真珠湾攻撃からレイテ沖海戦まで太平洋戦争のほとんど全期間を通じて日本海軍機動部隊の中核として戦い続けた空母で、非常にバランスの取れた高性能の空母だった。その間、戦闘の中核である空母として最優先で戦訓に応じて何回も不沈化対策が行われ、建造当初は魚雷2本程度の命中に耐えられる程度だったのが、最終的には魚雷7本の命中で沈没するほどの抗堪性を示すまでになった。これは並の戦艦を超えるほどの抗堪性で脆弱だったと言われる日本の空母だが、最後には戦艦を凌ぐほどの抗堪性を示している。重防御の空母「大鳳」が1発の魚雷を受けただけで航空機用軽質油が漏れ出して大爆発を起こし沈没したのは不運としか言いようがないが、それを戦訓として軽質油タンクの周囲をコンクリートで固めるなどの対策を施した。最後は艦内の可燃物をすべて撤去し、艦内の塗料、甲板に張られたリノリウムなども全て剥がしてしまうなどの徹底した不沈・不燃対策を実施したため乗組員は鉄板の床に毛布を敷いてるなどの不自由を強いられたという。それでも圧倒的な米軍の航空攻撃の前には抗すべくもなく撃沈されたが、その強靭さは対策の効果がいかんなく発揮されたと言うべきだろう。空母「瑞鶴」はただ運がよかったと言うだけではなく、当時の日本海軍の代表的な空母として米英の空母に決して劣らない優れた空母であった、‥(^。^)y-.。o○。
 
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